この心が声になるなら
額の辺りに薄手の布を巻きつけた、柔らかで腰まである長い銀糸の髪は、いくら染めたってこんな色は出せない。それになにより、その髪は薄ぼんやりと、僅かに青みがかった光を放っている。蛍石のようで綺麗だと、動転した頭の中でも夏芽は思った。こんな人間、いるわけがない。だけど夏芽は、確かに彼を知っている。知り合いでもないし、会ったこともないけれど。
(…………ナナイ、……の、コスプレ?)
けれど、そんな訳はないという思いが、その名の後に、コスプレという単語をつけたさせた。
その褐色の肌も、幻想的な光を放つ銀糸の髪も、完璧に整った造作も、ベットの端で未だ目を覚まさない男の姿は、夏芽の演じた「ナナイ」そのものだ。二次元のイラストで表現される姿と、人間の姿でそこにいるのとでは勿論多少見た目は異なるが、それでも、彼はどう見てもナナイだった。コスプレイヤーにしてもクオリティが高過ぎる。
(そんな場合じゃない! 誰だ!? ナナイが好きすぎる痛すぎるオタクか誰かか!?)
行き過ぎた追っかけにつきまとわれる被害は、声優仲間でも少なからず遭っている者がいる。それだって、家、それも眠っている間にベッドにまで侵入されたなんて話は聞いたことがない。いくら酒に酔っても奇行に走るような酔い方もしないし記憶が吹っ飛ぶようなたちでもないので、自分が招き入れたはずもない。どこから入ってきたんだ。高いところが苦手なあまりマンションの部屋を道路に面した一階にしたことを、今ほど後悔した事はなかった。
見知った姿に一時忘れかけていた危機感と恐怖が蘇り、逃げようと思わず身を引く。が、引いた先、身体は宙に浮いた。気づいたときにはもう遅い。大して反射神経の良くない夏芽の身体はバランスを崩してベッドから転げ落ち、物の少ない床に頭と腰を強か打ち付けてしまった。
「……っ!」
背中を打った衝撃で息が苦しい、声が出せない。体も動かせなかった。いつの間にか視界は寝起きの時のようにぼやけていて、すべての輪郭が曖昧だ。頭の下に何か硬い感触を感じて、軽くかけていたはずの眼鏡だと気付く。
「ん…………?」
ベッドの上で男がもぞもぞと動いた。今の音で目覚めてしまったのだろうか。軽い脳震盪を起こしたのかぼやける思考の中でも、恐怖が心臓を凍りつかせる。今は動けない。逃げられない。もし相手に危害を加えるつもりがあったら、抵抗できないで、そのまま。
「…………!」
こんな形で、死にたくない。まだ終わりたくない。
これほど自分が大嫌いで、尽きることない自己嫌悪に死んでしまいたいとすら思う夜をこんなにも重ねているのに。わけのわからない奴に殺されて死ぬなんて怖い、嫌だ。
けれど、そんな心とは裏腹に、体は生きるための行動を取れずにいた。そうこうしている間に男はベッドから上体を起こし、その人形のように整った双眸を、開いた。
その両の瞳は、アメジストのような、鮮やかで澄んだ紫で、夏芽は思わず息を呑んだ。カラコンでこんな色が出せるものなのか、それも、夏芽の知る「ナナイ」そのもので。
心臓はどくどくと脈打ち、驚きと恐怖とがない交ぜになったまま、夏芽は動けず、ただひたすら、その男を見ているしかない。
「ん……」
男の唇から、寝ぼけたような声が漏れた。そして数秒後、ぼやけていた紫水晶の瞳の焦点が、ぱっと夏芽の顔あたりで結んだ。
「……お前、誰?」
「降森さん、どうしたんですか? 今ベッドから落ちましたよ…………ね……?」
ふたつの、てんでばらばらな声が、ほとんど同じタイミングで重なった。
視線が、一点で交差する。
「え? ……ええ?」
支倉は床に倒れたままの夏芽とナナイを交互に見て、ぽかんとその大きな目を間抜けに見開いた。それでも、一秒後にはっとした顔で夏芽に駆け寄ると、その背中を抱き起こしてくれた。
「大丈夫ですか!? 痛いですか!? あれは誰で、えーっと、ナナイに見えるんだけど、……降森さん、もしかして、身体動かないんですか? 大丈夫!? 俺が誰かわかりますか!?」
支倉の口から零れる低くて厚みのある美声は完全に支離滅裂で、混乱していることが見て取れた。とはいえ、夏芽も同じかそれ以上に混乱していることは間違いなく、しかもまだ声は十分には戻ってきていない。
「えーっと……フルモリナツメ? 変な名前。声優? なにそれ。声だけで演じる役者……そんな職業があるのか。それからそこの背の高いお前もボクの名前呼んだけど、ボクを知っているのか? ……知っているのか」
ベッドの端にいた美青年は、これまた同じぐらいぽかんと見開かれた間抜けな顔で、ひとりでぶつぶつと呟いている。
返事ができないでいると、支倉の顔が心配そうに歪んだ。それから慌てたようにベッドの下の充電器に置かれていた夏芽のスマホを掴んだ。
「え、えっと、救急車呼びます!」
そう大声で叫んでボタンを押すも、電源は入ったものの、暗い部屋の中で明るく光った画面を前に、支倉の動きがぴたりと止まった。パスワードを入力せずとも緊急電話は掛けられるのだが、その方法がわからないらしい。表情の動きの大きな支倉の顔が困惑しきっていることが、裸眼で見ていてもわかった。
「おい、具合が悪いのか? ……いや、ちょっと頭と背中を打っただけだ。大変な怪我はしていない。心配しなくても、すぐ良くなるはずだよ」
その言葉に、目だけはなんとか動かせる夏芽と、夏芽を抱きかかえたままの支倉の視線が、男へと向けられた。
自分で質問を口にし、ややあって自分で答える。この奇妙な話し方を、夏芽は良く知っていた。それは、ナナイの最大の特徴だ。
彼の声で発された問いの答えを、彼は必ず得ることができる。その問いに、確かな答えが存在する場合は。
そんなところまで真似ているとすれば、相当痛いファンだ、とまだいつも通りには程遠い思考の中で、夏芽はぼんやりと考えた。
やがて視界の歪みが治まって、近眼の影響だけが残る。さっきベッドから落ちたときに壊してしまった眼鏡は使い物にならないだろう。支倉の体温の高い手でさすってもらっていたおかげか、息苦しさも引いてきて、試しに「あ」と小さく呟いてみたら、ちゃんと声は出た。
「……きみは、誰だ? どうして、ここにいるの?」
逃げ出したい気持ちを、確認しなければという気持ちと関心が上回る。ナツメの声を聞いた男は、数秒間を置いて、答えた。
「ボクはナナイ。ここにいるのは……えーと、物語のキャラクターが、そのキャラに一番縁の深い人間のところに現れる現象が起きて、ボクはフルモリナツメに呼ばれた。え、物語って、どういうこと?」
その作り物のような貌から、一瞬にして色が失われたのが、ぼやけた視界の中でもわかった。
「ボクは、誰かの作った物語の登場人物なのか?」
一見すれば意味不明の独り言。それは、ナナイの能力である真実にたどり着く自問自答だ。
「……嘘だろ、でも、真実なのか」
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい