この心が声になるなら
自分の知らないところで何かが動いている。それはあの作品がいろいろな悪評に曝された時と似ていて、夏芽を不安にさせた。イラストレーターの交代は大きな痛手だったし、若い声優が三人も未成年飲酒やプライベートの問題が原因で降板するなど、夏芽やトウヤの手の届かないところで次々と問題は起きた。イラストレーター交代については、出版社側と当人との間の泥仕合がブログなどで明らかになってしまったのだが、トウヤがその収拾に手を貸すことはなかったし、或いはそんな騒動があったことにすら気づいていなかったかもしれない。金にも名誉にも興味がない彼は、生活に最低限必要な金と文章の発表の場と、書くことでそれらが得られるという環境さえあればいいという根っからの芸術家体質であるので、不満はないらしい。性格は悪くなく気取ったところがないので夏芽は好感を持っているが、彼のそういうところや、他人の話をほとんど聞かずに一方的に喋り続けるところが嫌いな人は少なくない。彼と関係ないところで起きた問題は、巡り巡ってトウヤに対するバッシングへも繋がってしまった。例によって本人はまったく気にしていないものの、トウヤと仲が良い夏芽にもその矛先が向くことを事務所は心配していた。
ナナイ役の降板の噂に、トウヤの意思が関わっていなさそうだということは、夏芽を安心はさせた。故郷の方言で繰り出される相変わらずの一方的なガトリングガントークも、夏芽にとっては馴染んだもので心地よくすらある。
けれど、最近のトウヤには、ひとつだけ隠し事がある。結婚が近い彼女がいる、という話は聞いているのだが、それが誰なのかをどうしても教えてくれないのだ。交際相手がいることがバレるとまずい立場の相手であるらしく、今は事前の根回しや挨拶に追われているのだという。社交の場に出ていくことを好まない彼のことだから、出会いは限られている。普通のタレントなどと出会うわけもないから、声優だろうか。それもどちらかといえばアイドル的立場の。
(まさかゆいゆーじゃないだろうけど)
正直言ってあの賑やかでマシンガン気味しゃべりたがりの彼女に、その更に上を行くガトリングガントークかつ人の話を聞かないトウヤの相手ができるとは思えない。トウヤは友達だし、優衣は妹のようにかわいいが、あのふたりがくっついて幸せになる気はあまりしない。
相手が妹分ではなくとも、親友の婚約者だ、知りたいに決まっている。あんな面倒で基本的に他人に興味のない男が結婚したいとまで思う相手、夏芽が知る限り最も頭の良い人間であるにも関わらず考えなしに思いつきで行動する彼が、誰なのかを隠し通してまで共にいたいと願う相手だ。気にならないわけがない。けれど、トウヤは頑なにその名前を口にはしない。
僕がそれを誰かに話すと思うのか、と、聞きたい気持ちはある。その程度の信頼すらない間柄だったとは思いたくなかった。人間関係においては今一つ融通の利かない彼が、どこまでは話していいだとか誰になら大丈夫かとかを考えず、とにかく「誰にも話さない」という選択肢を取っているだけなのだろうということも想像がつく。けれど、それと寂しくないかどうかというのは、別の問題だ。
「ナツメお前司会と友人代表挨拶どっちのほうやりたい? 友人のほう俺はいいなお前以外に東京に友達いねえし。相手のコト話して良くなったっけ絶対誰より先に言うからさ。時期は大体十月ぐらいで考えてんだけどもお前の予定って何ヶ月前だったら確実に押さえれんの?」
「半年先ならまだ大丈夫だよ。一応、いくつかもう会場を押さえちゃってて動かせないイベントもあるから、それだけ被らなければ」
上機嫌にまくしたてるトウヤにそう言い、この時点で決まっていて絶対に外せない日程だけを伝えると、「したっけその日は止めとくわ。お前の来れる日最優先だもん」と言って笑う。
「なるべく早く決めてね。きみの結婚式だって言えばきっとその日は空けてもらえるから」
前ほどは忙しくないし、という言葉は口にせず、そう言って穏やかに笑えば、トウヤも嬉しそうに笑った。決まってない日程をまだ具体的に知らせてもらえないことよりも、もう決まっているその相手を教えてもらえないことが、――信じてもらえていないかもしれないことのほうが、寂しいし困るんだよ、とは、とうとう言えずじまいだった。
寂しい。
今の心の中で、一番大きなものはそれだ。支倉との距離が、トウヤに信頼されてないのではないかと疑ってしまうことが、役者としての自信を削り落すような噂が。
知らないことが、怖い。知れないことが、嫌だ。
それこそ、ナナイなら。自分が演じたあのキャラクターの特殊な能力があれば、それらすべてを知ることができるのに、この現実で生きる超能力もなにもない普通の人間に、そんなことができるはずもない。
可愛がってくれている先輩が結婚するときに、「彼女でも連れてきたときに狭いとやりづらいぞ」などと言われて、ほぼ無理やり買い取らされた中古のダブルベッドの広さが、何故か胸に堪えた。最後にそんなことをするような相手がいたのはこのベッドを押し付けられるよりも何年も前の話で、誰かとここで時間を共にしたことなど、一度もないはずなのに。
この部屋で、このベッドでひとりきりなんて、それしか知らないはずなのに。
――ひとりきり、のはず、なのに。
ふと、ベッドの端のほうで何かが揺れたような感覚があって、夏芽ははっと顔を上げた。不規則な仕事だから動物なんか飼っていない。かといって昆虫やネズミの類にしては、大きすぎる振動。
暗い思考の海を揺蕩うていた思考が、一瞬で現実に引き上げられた。脳のどこかが、非日常の可能性を知らせ、警戒信号を発する。脈拍が一気に上昇し、漠然とした光しかなかった視界が、急激に開けていった。
なにか、いる。
上体を跳ね起こした。咄嗟に枕元の眼鏡を掴む。もしそのなにかが危害を加えてきた時、布団が盾になってくれるかもしれない。そう思って布団を引き寄せて、布団がなくなった部分から見えたものに、夏芽は悲鳴を上げようとして、息が詰まった。それは、間違いなく人の脚。
「っ…………!?」
思わず引いた背が、パイプベッドの骨組みに勢いよくぶつかって鈍い音を立てたけれど、それに気付く余裕はなかった。痛みさえ感じなかった。
人の脚、それ以外はまだ布団の中にあって見えない。自分のものじゃない。あとこの家にいる可能性があるのは支倉だが、彼のものでもない。布団から覗いたそれは、支倉の異質な白さとも、夏芽の日本人にありふれた象牙色の肌とも違うことが、カーテン越しの薄い明りの中でも一目でわかった。
浅黒い肌。こんな色の皮膚を持つ人は、少なくとも夏芽の知り合いにはいなかった。今のところ、動く気配はない。いつでも立ち上がれるように脚の位置を整えつつ、夏芽は恐る恐る布団を引き寄せた。
自分の目が信じられなかった。とうとう幻覚を見るようになったのか。声が出ない。
布団の中から姿を見せたのは、二十歳前後の若い男だった。
浅黒い肌。どこで売ってるのだか想像もつかないような素材の服。銀色の髪。うつ伏せ気味の横顔は、つくりもののように完璧に整った造作。
そう、つくりものだ。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい