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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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この心が声になるなら

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 どうせもし支倉がナナイを選んで、神の代行者を押し付けられてしまったら、自分は忘れられてしまうのだ。ふたりの間に踏み込んで、みっともなく縋りついて、好きだとわめき散らしたって、恥ずかしいのはその時だけ。そんな風に考えた自分に驚いて、だけど、苦しくて切なくて恐ろしくてたまらない心に、なにか柔らかで温かなものがひとつ落ちてきたように感じた。それは勇気とか無謀とか蛮勇とか、そんな名前が付けられるものに似ているのかもしれない。
 らしくないなんて、きっと支倉は言わないだろう。あの情けない姿を見せた時も、昨日だって、今までに一度だってそんなことを言われたことはない。
 自分でわかる自分なんて、ほんのわずかだ。わかるのは、自分の言葉で他人が感情を揺らすのが怖い、臆病者だということ。誰かのせいにしないと声すら出せない、情けない人間だということ。それでも、本当は、自分の声で、自分の言葉で、この思いを叫びたいと望んでいること。支倉が好きだということ。それぐらいだ。
 支倉のマンションの玄関をくぐり、インターホンを押す。返事はない。もう一度押したけれどそれでも反応はなかった。もう一度。それでも結局狭い共用玄関に古臭い音が響くばかり。立ちはだかる硝子の自動ドアを叩き割るわけにも行かず、夏芽は一度外へ出た。
 玄関の直ぐ側にある金属製の非常階段のドアは昨日の夕方と変わらず鍵がかかっていなかった。支倉の部屋は五階。その位置を見上げた。
 ここを昇れば、五階までたどり着ける。大した遠さではない。けれど、透けて下が見える網状の足場、子どもなら簡単に転落してしまいそうな隙間の広い手摺に、ぞわりと鳥肌が立つ。自分の背丈より高い場所はもう怖くて、二階の窓から下を見下ろすことさえできない。けれど。
 大きく息を吸って、手摺を掴んだ。一段目に脚をかけると、こんな軽い身体だというのに足元が僅かに軋む。その揺れを感じて心臓が嫌な鳴り方をしたけれど、そのまま指と足元の感覚だけを頼りに、目を瞑って一気に螺旋状の階段を駆け上った。
 情けなくても、これが自分だ。仕方がない。足元の微妙な感覚で、その下にはなにもないことが実感させられて、恐怖に足が竦みそうになる。それでも、支倉に思いを伝えられないまま終わってしまうことのほうがずっと怖いから、必死で足を先へと進めた。途中でそっと目を開けるとまだ三階で、ただただ正面だけを見て、震える体を奮い立たせて、残りの二階分を昇る。
 なんとか五階へ辿りついた時には移動のせいだけじゃなく息が上がりきっていて、なのに全身の血の気が引いたみたいに寒気がして、身体の感覚が壊れてしまったかのようだった。それでも支倉の部屋のドアノブを掴んだときの硬くて冷たい感触は、いつもよりずっと、地に足がついたような、現実感があった。鍵の掛かっていないドアは、簡単に開いた。

 狭いワンルームの部屋は、ドアを開ければすべてが見通せる。壁際に追い詰められるようにして立っている支倉の姿も、ドアが開く音に気付いたのかこちらを振り返ってニヤリと妖艶に笑うナナイの姿も。
「遅かったねぇ」
 その指先は支倉の顎に絡みつくようにかかっていて、唇からちろりと覗くやけに赤い舌も相俟って、どこか蛇を思わせた。
「ボクはお前みたいに悠長に構えている気はないからね。ボクは、もう言ったよ。『シュウゴが好きだよ』ってね。まだ返事はもらっていないけど」
 つつ、とその指先が支倉の顎から首を伝ってその喉に触れた。
「ふる、もりさん」
 驚いたような表情のまま動けないでいる支倉が、夏芽を見た。見開かれた後、縋るような色に変わった瞳が、ああ、やっぱりどこか犬に似ている、と、こんな状況なのに思う。
 ナナイの言葉を、支倉はどう受け取ったのだろう。どういう反応をしたのだろう。どうその心を揺らしたのだろう。そして今、ふたりは何をしていたのだろう。
「今更乱入されても、負ける気はしないね。どうせお前が自分の価値だと思っているものは、ボクだって持ってるんだよ」
 確かにそうだ、それでも、
(それでも、僕はきみじゃない)
「自分が嫌いなんだろ? 消えたいと思ってるんだろ? ……今だって変わってないね。ならいいじゃないか。お前の立ち位置も、価値も、居場所も、全部ボクにちょうだいよ」
 支倉がその言葉に目を見開いた。何か言おうとして口を開こうとしたのをナナイが手で制するのが見えた。
 ああそうだ、嫌いだよ。こんな自分なんて消えてしまえばいいと思う。だけど、それでも諦められない。
 声は出るだろうか。いつだって本当のこころを口にしようとすれば、喉が空回りして、息だけが吐き出された。唇がその形にすら動いてくれないときもあった。ずっと諦めてきた。自分は、話せないのだと。出来損ないなのだと。
 だけど、もし願いが叶うなら、叶えることができるなら。この思いを支倉に伝える為に、二十年以上前になくした声を取り戻したい。つくりものじゃない本当の声で、言いたい。一歩、二歩、距離を詰めて、間違いなく彼に聞こえる距離まで。大きく息を吸った。唇を、開いた。
 自分よりずっとずっと大好きな、こんな空っぽの自分をたったひとり温かなもので満たしてくれたひとの名前を、紡いだ。
「はせくらくん」
 声は出た。紛れもなく、他の誰でもない自分の声が。けれどそのかすれた声の舌が回っていないことに自分で驚いた。なんだこれ、とても、声と喋りを生業にしている人間の声ではない。確かに声変わりを終えた大人の声質のはずなのに、まるで小さな子どものように幼稚で、たどたどしい声だった。自分でもこんな声を聞いたことはなかった。それは酷くか細くて、今にも消えてしまいそうで、けれどそれでも、ひとつひとつ、音にした。
 誰のせいにもしない。それできみが悲しい顔をしようと、嫌悪するような表情を向けられたとしても、それでも逃げたくない。伝えたい。他の誰でもない、誰のせいにもしない、自分自身の声で。
 この世に他にない、たったひとり、自分だけのこの声で。
「きみが、好き、だよ」
 幼い子どもが、同級生に幼稚でかわいらしい愛を告げるような拙い言葉しか、出てこない。けれども、どうしようもなく切実な思いが、この身体の芯から溢れ出して、どんどんそれは声になって唇から零れ出した。
「好きだよ。大好き。きみが好きなんだ、支倉君……!」
 技巧に満ちた告白なんてできない。台詞としてなら何百通りも口にしているというのに。この想いが声というかたちを得ただけのもの。それだけが止むことなく、狭い部屋に響いた。
 好き、好き。何度も何度も、ただただ繰り返す。壊れたおもちゃみたいだ。だけどそんな作り物じゃない。紛れもなく本物の自分の想いで、自分の声だった。
 二年間、降り積もった愛しさが、恋心が、かたちを持つことを許されてしまったらもう止まらない。これだけたくさんの思いをすべて吐き出し切ることなんてできなくて、それでもただただ、声に、言葉にした。
「降森さん、あの」
 それが止まったのは、支倉がおずおずと声をかけてきたときで、夏芽ははっとした。
 拒絶されても、伝えたい。そう思ったのは確かだ。けれど、それでもやっぱり怖かった。だから、支倉の顔を見れていなかった。