この心が声になるなら
いつの間にか曲は終わっていて、三曲目のイントロが流れ始める。一曲目とも二曲目とも違い、ちょっとロック調のその曲に、今のこの感覚を見失いそうになって。
「待って!」
思わず背中を預けていた背もたれから起こして、夏芽は身を乗り出していた。スチール製の椅子が一瞬浮き上がって、大きな金属質の音が立つ。その場にいた全員が夏芽を向いて、はっとなった。慌てて顔と声を取り繕う。けれど、誰にも気付かれないまま、その心と身体の感覚は元には戻ってくれない。
「すみません、今の曲、もう一度聞かせてもらっていいですか?」
夏芽はそう言っていた。どうせこのCDは夏芽が貰ったものだし、そもそも実際の収録までに聞き込み、覚え、歌うものなのだ。気になったのなら、家に帰ってから聴いたっていい。
けれど、この痩せた空っぽの体の奥で、心臓がうるさいぐらいに鳴っていた。
その正体を、今すぐに確かめたかった。詩の中に描かれていないはずの、なのにこの身体の中に確かにある何かが、なんであるのかを。そうしなければ、きっとこの動悸は収まらない。
勿論拒否されるはずもなく、一番手近にいたスタッフが巻き戻しボタンを二回押した。再びあの心地良いピアノの旋律が流れる。けれど、その先にあるものが、同じように優しい感触のものではないことを、夏芽はもう知っている。
言葉、が、耳と目に入る。
なにひとつはっきりとは言わないで、だけど、酷くそれは心をざわめかせて。こんなことは初めてだった。
一曲目と同じように、歌の主人公の役柄を掴もうと、詩とメロディで頭を満たそうとする。初めてこの曲を聴いたときに、そうしようとしたように。そして、できなかったように。
何もつかめないわけじゃない。けれど、いつもだったらつかめるはずの「誰か」の手ごたえが違う。この慣れない感覚をどうにかしたくて、夏芽はもがいた。それは、嫌な感覚ではなかった。けれど、どこかぞくりとしたものが残った。それはどこか、ナナイと対峙したときに感じた寒気に似ていた。読み解こうとする「役」の印象は、その思いは、一度目に聞いたときとほとんど変わらない。けれど、その輪郭は徐々にはっきりとしてくる。
「……もう一回、お願いします」
三度目。四度目。取り憑かれたように、夏芽はその曲ばかりを繰り返した。自分が酷く異様な様子であることさえ、最早夏芽の意識にはのぼらない。
こんなにも、何かを希求したことがあっただろうか。勿論、いつだって役作りには没頭してきたし、役を自分に降ろすために、その心、思考、呼吸のリズム、何気ない癖まで全て読み込んできた。けれど、それとは感覚が違っていた。役柄を突き詰めることに迷いや恐怖はなかった。それは役者である以上当然のことだったし、自分はそうやって生きてきた。仕事だって、私生活だって。だけど、今は、その奥へ奥へと手を伸ばせば伸ばすほど、確かに距離は近づいていると感じるのに、一向に辿りつけない深い深いところへと誘われている気がして、体の奥底から寒気のようなものが這い上がってくる。なんだろう、この感覚は。
けれど、今ここでやめたら二度と辿りつけない気がして、深く、より深くへと潜っていく。
夏芽がひとつひとつ掴み取っていくそれは、最早詩に描かれ歌われるそれには書かれていない思い。けれど、まだ足りない。届かない。その奥底にあるものは、なんだろう。言い訳や周到に用意した逃げ道で覆い隠した、けれど確かにそこにあるものは。
目を逸らして、忘れようとして、気付かない振りをして。誰かのせいにして。それでも、隠せても、見ない振りをしても、消すことができずにそこにあるもの。
(きみが、好き。だから、僕を見て。声を聞いて。他の誰でもない、僕の)
その思いにたどり着いたとき、はっと、急に遠ざかっていた五感が戻ってきたように感じた。自分に入り込んでいた役柄がすっと抜けていく時と似たようなそれを、しかしいつものそれよりはるかにはっきりと感じた。
この目も、耳も、鼻も、指先からも、感覚がはっきりと伝わってくる。けれど、それがいつもよりもずっと生々しいように感じて、夏芽は暫しぼうっとただ目の前に広がる世界を眺めた。
感覚と自分の、この体と心の間にあったはずの壁が、すうと消えたようだった。目で、耳で、肌で感じる感覚が、直接届いているような。
ああ、そうか。今向き合っていたのは他の誰でもない。
(僕の、僕自身の、こころだ)
こんなに世界がはっきりと見えたのは、何年ぶりだろう。
電車から飛び出すようにして降りるなり、夏芽は全力で走り出した。
僕を見てほしい。この声を聞いてほしい。自分自身の声で、この心を伝えたい。できるはずがないと諦めて、自分でも気付かない振りをしていた、これが夏芽の本当の願いだった。
(忘れられたくなんか、ない)
まだ、変われるかもしれないのに。
自分がどんなに大嫌いで、尽きることのない自己嫌悪に死んでしまいたいとすら思う夜をどれほど重ねただろう。それは今も変わらない。支倉の元へと全力で走る今このときであっても。でも、それでも。
(こんな大嫌いな僕のままで、終わりたくない……!)
こんな自分が生きている意味があるなんて言い切れない。今だって、自分の価値は声と演技にしかないとしか思えない。だけどそれでも、死にたくも、忘れられたくも、消えたくもない。
だって、まだ生きている。まだ覚えてもらっている。
まだ、変われる。どうせ今までのままでいられないなら、忘れられてしまうかもしれないなら、その前にどうしても伝えたかった。変わりたかった。
役を掘り下げていたはずなのに、どうしてこんなことになったのかはわからない。けれど、表に出すことに慣れていなかった感情は、一度溢れ出してしまったら抑えることができない。
こんな自分でも、自分なのだ。別の誰にもなれないし、誰も自分にはなれない。そんなことに、今更気付いた。二十九歳にもなって、そんな子どもでも知っているようなことを。別の誰かになれば、生きていけると思っていた。だけど、自分自身を消してしまうことは、できない。
どうしようもなく、きみが好き。紛れもない、自分だけの思い。支倉修吾を愛している。
これが、降森夏芽の正体だ。
大学に入ったあの日に覆い隠したまま見失っていたものを、もう二度と手放さないと誓うかのように、ぎゅっと手に力を込めて、走り続けた。
支倉は午後はオフのはずだ。なのに、電話を掛けても出ない。ナナイに持たせたプリペイド携帯に掛けても、コール音が空しく繰り返されるばかりだった。
(もし、あの二人がいい雰囲気になってたりしたら)
そんな光景は見たくない。けれど、もしそうなっていても、逃げたりはしない。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい