この心が声になるなら
CMのナレーション録りが終わり、今日残っているのは、音楽関係の仕事だった。
初めての「降森ナツメ」名義でのCDリリースが控えていた。キャラクターソングという形では今までに歌の仕事をしたことは何度もあるし、アイドル歌手の役柄でミニアルバムも出している。初回特典CDなども含めて音源化された曲数だけなら、下手な専業歌手よりも多いぐらいだ。とはいえ、歌唱力については、聞き苦しいほど下手ではないはずだが特別上手いわけでもない自覚はある。勿論、素人の平均値よりはずっと上手いはずだけれど、キャラクターソングならともかく、個人名義で歌ってCDを出させてもらうほどの値打ちがあるものだろうか。
僕でいいんですか。この話が持ち込まれたとき、夏芽は久しぶりにその問いを口にした。初めて原作者の指名で主役をもらったとき以来だった。それに対して返されたのは、「お前、自分がどれだけ人気があるのかわかってないだろう」という言葉だった。それとこれとは別問題のような気がして、いまだに消化しきれずにいる。
仮歌の入ったCDと歌詞とを手渡される。目の前でプロデューサーがにこにこと笑っていた。さすがにこの期に及んでもう一度自分でいいのかと尋ねるつもりはないが、芝居の仕事と違って、やはりいまいち自信と確証が持てないでいた。
そもそもナナイの目論見通りの状況になってしまったならば、レコーディングすら迎えられずに自分の存在は忘れられてしまうのだけれど。ああ、そうなったらこの人たちにも迷惑がかかってしまうな、そう、ぼんやりと考えた。仕事柄、立場柄、迷惑がかかる相手の心当たりなら山のようにある。けれど、自分の存在が突然消えて、その空白に寂しさを感じてくれる人は、どれだけいるのだろう。せめて支倉とトウヤぐらいは気付いてくれるだろうか。誰かがいなくなったことに。それとも、支倉の空白はナナイが、トウヤの空白は彼の婚約者がすぐに埋めてしまって、気付かれることさえないままになってしまうのだろうか。
そんな思考をしつつも、仕事を含めた彼の社会生活を代行する役柄であるところの降森ナツメは、仕事用の真剣な顔で尋ねた。
「どういう感じで歌えばいいでしょうか。イメージとか、ありますか」
たとえば、何の役を演じたときみたいな声で、だとか。歌そのものは特別上手くはないが、少なくともキャラクターの声で、呼吸のリズムで、なによりもそのキャラクターとして歌うことはできているつもりだ。
プロデューサーはにこにこと笑いながら、その問いに答えた。
「そうですね、……ナツメ君が歌いたいように、君が歌詞と曲から感じたままに、歌ってください。あとは特に指定はありません」
夏芽は、歌詞と曲から感じたままに、とその言葉を鸚鵡返しにする。彼は頷いて続けた。
「君が素晴らしい役者なのは誰もが知っています。物凄く深く物語と役柄を理解して、演じる人だと。だから、君がどんな風に、曲と詞を感じ取って表現してくれるかを、見てみたい。そのために、キャラソンではなく『降森ナツメ』名義でとお願いしたんです」
その言葉に、つまりは詞の物語を理解し、その役柄で歌えばいいのだろうかと考える。けれど、プロデューサーの意図するところは少し違うような気もして、夏芽は戸惑った。
自分の感じたまま。それは役柄をつかめということなのか、その感想を表現しろということなのか。それともまったく違う意味なのか。とにかくもらった歌詞を読みながら、一度聴かせてもらうことになった。
曲は三曲あった。A面にはCSのアニメ専門チャンネルで放送しているバラエティ番組のタイアップがつくことが決まっているが、二曲目、三曲目は特にそんな予定はないという。
一曲目が始まる。バラエティのED曲であることが前提であるため、明るく爽やかな曲調だ。夏に向けてのポップな恋愛ソングで、比較的音域が高いから声優ファンの女の子たちがカラオケで歌うにもちょうど良さそうだ、という印象を持った。
(なるほど、そういう感じで歌えばいいのか)
夏だから恋をしましょう、という感じに。この歌詞の主人公の像が急速に体の中で結ばれていく。如何にもモテそうで、ちょっと軽くて、だけど好きな子には誠実で。恋愛は一目惚れ型で、合コンとかナンパとかもしそう。賑やかなメロディとその主人公の姿が溶け合って行く。
その主人公として、歌えばいい。キャラクターソングとそんなに要領は変わらないかな。そんなことを考えていると、弾けるような音とともに曲が終わった。そのまま二曲目を続けていいかと問われたので頷いた。ピアノのイントロが流れ始める。
流れる水のような音だ。踝の上までやっと浸かるか浸からないかぐらいの浅い小川を流れる水のような感触。ひんやりと冷たくて、けれどそれが心地よい。合成ではない生のピアノの音色。音楽の素養は高校までの授業ぐらいのものだから名器かどうかなんてわからないけれど、いい音だなと素直に感じた。
(これ、一曲目より好きかも)
歌詞に目を向けて、夏芽は耳と目に意識を集中した。
すぐには掴めない。それが、最初の印象だった。
多分きっとこれは、誰かへの恋心を抱えた人のうた。けれど、それをはっきり述べているわけではない。
気付いているのか、いないのか。認めたくないのか、認めるのが怖いのか。意味があるのかないのかすら判然としない言葉を玩ぶように転がして繋ぐ。直接的に思いを語る言葉は、歌詞の中にはない。掴もうとすれば指から零れ落ちていく。
何もかもが曖昧で、けれど。
(きっと、きっとすごく、大切な想いなんだ)
あまりにも大きくて、大切で、だからこそそれにはっきりとしたかたちを与えることから逃げているような、そんな詩。認めてしまったら、向き合わなくてはいけないから。向き合ったら、壊してしまうかもしれないから。だからこのままでいたい。けれど、その思いの大きさに、抱えているのも辛くなっている。そんな、気がした。
僕だったら、どうする?
僕は、どうしたい?
両腕で抱えても足りないほどの、だけどどうしても捨てられない、諦めきれないこの想いを。
はっとして、歌詞から顔を上げた。蛍光灯の明かりが目に入ってちかちかする。
(今、僕は何を考えていた?)
二番とラストのサビの間に、ここまでの歌詞にぱっと目を走らせた。今考えていたようなことは、どこにも書いていなかった。
茫然としているうちに、ラストのサビが始まる。美しい旋律を確かにこの耳はとらえているはずなのに、その音は、詩は、夏芽の中にあるなにかを確かにざわつかせた。
(どうして僕は、支倉君のことを、考えていたんだ?)
役作りに、自分が経験した感情を反映させたことは勿論ある。けれど、それとはなにかが違う。決定的に。もっとこう、そう。
(心のどこかが、…………いずい)
おそらく一度も口にしたことがないであろう故郷の言葉でしか言い表しようのない感覚。ざわめくような、くすぐったいような、けれどどこか痛いような。そのどれもが当てはまるようで、だけどそのどれでも表しきれない。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい