この心が声になるなら
まだ指は離れてはくれない。体の芯からなにか冷たいものがじわじわと湧き上がってくる。
ナナイが何を言おうとしているのか。わかるけれどわからない。けれど、脚の震えが、彼の指先を跳ね除けられないこの腕が、自分が脅えているのだと夏芽に知らせた。
「ねえ、ナツメ。ボクと代わってよ」
更に一歩距離を詰められ、耳元で囁かれたその声は指先と同じようにひどく冷たくて、そして元は自分のそれと同じはずだというのに、とてつもなく甘くねとりとした響きを孕んでいた。
「ボクの代わりに、お前が代行者になればいいんだ」
呼吸が、詰まった。唾がうまく飲み込めない。
「なに、いっ、てるの」
言葉のリズムが狂った。体温調節機能が突然狂ったかのように、寒気と熱が交互に襲ってくる。ナナイは笑う。完璧に整った貌で。
「このままだと、もしシュウゴがボクを選んでくれても、ボクはあと数日でここを去らなければならない。ねぇ、お前は自分の声と演技にしか価値がないと思ってるんだよね、ナツメ? 確かにボクは演技力ではお前に敵わないけど、声は同じだ。お前の数少ない価値の何割かは、ボクも持ってるんだよ。だったら、お前はいなくてもいいんじゃないの? だってそれ以外に生きてる価値がないんだろ?」
胸に手を突っ込まれて心臓を掴まれたような感覚がした。息が出来ない。声が出ない。反論する言葉が、上手く出てこない。
「ぼ、くが、突然いなくなったら、仕事で迷惑が」
やっとの思いで搾り出した言葉をぶつ切りにするように、面倒なものだね、とナナイは呟く。
「そうだね。最初は混乱するかもね。ボクらの世界ではそれでもみんなが記憶の辻褄を合わせるんだけど、こっちの世界だとお前の声とかシャシンとかが残ってるんだもんね。技術が凄すぎるのもこういうときは不便だね。でも大丈夫だって、そのうち、みんな忘れるから。はじめっからいなかったみたいにね」
演技と声にしか価値のないお前がいなくても、困るけど、それだけだろう?
耳元で囁くその声に、価値のある声に、夏芽は返す言葉を持たなかった。
自分が消えても、忘れられても、確かに仕事には大きな穴を開けてしまう。降森ナツメ、という名前とその声は確かに残っているし、所属事務所の名簿にもあるのに、誰もその存在を思い出せない。誰もが首を捻るだろう。けれど、それだけだ。
誰かの生活の中に、心の中に、自分はいない。そこに穴が開いたとしてもそれはきっとひどく小さなもので、いつの間にか、気付かれることもなく塞がってしまうのだろう。
「別に今すぐ代われってわけじゃないし、勿論、シュウゴがボクを引き止めてくれなかったら、ボクは元の世界に戻って代行者を続けるさ。ボクが向こうに帰って、お前は代行者になってみんなに忘れられて、じゃ、誰も得しないからね」
そして、あ、そうそう、と大したことでもないように言って、喉元に当てられた指が離れた。それでも、冷たい感覚は、タールがべったりとまとわりつくように、夏芽の身から剥がれてはくれなかった。
「このことは、シュウゴには秘密だよ。自分の選択でボクかナツメが消えるなんて、そんな重い選択を迫るつもりはないからね」
身体が動かない。声が出ない。ナナイに触れられた喉から茨の弦が伸びて、縛られているみたいだ。口にするべき台詞がわからない。
「じゃ、あと二日、せいぜいお互い頑張ろうか」
茫然とする夏芽に不釣合いなほど美しい表情で笑いかけると、羽根のように軽やかな足取りでナナイの気配が遠ざかっていく。気付いたら、壁に凭れた背中がずりずりと崩れ落ちて、フローリングの床に座り込んでいた。けれど、よく知っているはずのその感触が酷く遠いものに感じた。住み慣れたはずの部屋の景色もやけに現実感のないものに思えるけれど、これが夢なのか現実なのかを確かめる術さえ、夏芽にはなかった。この世界から切り離されてしまったかのように、自分の身体とその外側の世界の間に見えない仕切りがあるかのように感じて、ただ、身体がずっと小刻みに震えていることだけが現実味を持って感じられた。無造作にポケットに突っ込んだままの携帯電話のアラームが鳴るまで、夏芽はその場から動けなかった。
役柄に入り込むと、すべてを忘れられる。その時抱えている問題や不安も、自分が自分であることさえも。なのにこんな日に限って芝居の仕事が入っていないことに、夏芽はため息をついた。いつも演技をし続けているのは確かだけれど、「降森ナツメ」でいることと、台本のある芝居をすることは意味合いが違う。
午前中最初の仕事は、CMのナレーションだった。普段ならばあまりこういう仕事は夏芽には回ってこないのだが、北海道で創業された会社でできるなら北海道出身の人に、という依頼だったらしい。高校以前の自分を知る人に会いたくはなく、両親とも疎遠であるので、あまり夏芽が北海道に帰ることはないのだが、それでも北海道という土地自体には愛着がある。今でも東京の空気はあまり好きにはなれないし、夜でも窓を開け放つことができないほどの騒音には、慣れたとはいえうんざりする。自分同様地方の生まれ育ちで、しかも音に対して過敏な支倉にとっては、上京当時この騒音がどれだけの苦痛だっただろうと考えて、そこからナナイとの朝のやりとりを思い出してしまって、気分が沈んだ。
ナナイの言う通りだ。自分が突然姿を消して、存在そのものが忘れられて、仕事では大きな迷惑をかけるだろう。今までに誰かと関わったことは忘れられても、物理的に残した名前や声までは消えない。一体降森ナツメとは誰なのだろうと、皆が不思議がるだろう。既に決まっている仕事もあるから、事務所は大混乱に陥るに違いない。
けれどきっと、その違和感すら忘れられていく。自分が演じるはずだった役柄には別の誰かが宛がわれて、今まで出演した作品に残る名前と声以外は何も残らない。
自分の価値は、演技と声にしかない。そしてその声は、ナナイも持っている。ナナイには、自分にない価値がある。魅力的な容姿も、良く回る頭脳も、行動的な性格も、自分の思ったことを伝えるための声も。
どうすればいいんだろう。どうすればよかったんだろう。勿論、ナナイが支倉に振られさえすれば、すべては元通りのままだ。そんな四日やそこらで人ひとり落とせるとも、夏芽の常識の範囲では思えない。それでも、可能性はゼロではない。
逃げ出してしまえばいい。いくらナナイが夏芽の居場所を完全に掴むことができるとはいえ、逃げて次に向かう場所まではわからないはずだし、知識はあっても土地勘のない彼に移動パターンから次のルートを予測することは難しいだろう。数日逃げ切ればナナイは東京には留まれなくなり、少なくとも一年は戻って来られない。けれど。
(僕はそうまでして、ここにいたいのかな)
その確信が、自分のことであるはずなのに、つかめなかった。
からっぽの自分。自分の思いを伝えるための言葉さえ持たない自分。
この顔を「降森ナツメ」に笑顔にしてもらいながら、自己嫌悪のあまり消えてしまいたいと願ったことさえあるのに。
(僕は、どうしたいのかな)
それさえわからないのが、なにより一番恐ろしかった。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい