この心が声になるなら
4th day,この心が声になるなら
携帯電話の着信音に気付いて目を覚ませば、カーテンの向こうには既に朝の気配があった。それでも、いつも目を覚ますはずの時間よりは少し早い。
半分だけ覚醒した頭で画面を確認すればマネージャーからの業務連絡で、脳の仕事に使う部分は差出人を確認すると同時に冴えていく。さっと目を通して直ぐに内容確認した旨返信した。
ナナイが現れて、四日目の朝だ。あと一日。あと一日で彼は元の世界に戻る。支倉に選ばれない限り。けれど。
(それで元通り、には、もう多分ならないだろうな)
大きくため息を吐いて、それなりに食べているはずなのに痩せていく一方の体を重たく引きずるようにしてベッドから這い出た。
廊下に出れば、居間からテレビの音が聞こえる。昨日は家に帰ってもテレビをつける気分ではなく、それどころか夕飯を作る気力すらなくて、今日受け取った台本のチェックを済ませると、そのままベッドの上から動けなくなってしまった。食事を抜くことなど、ほとんどないのに。眠れないのに、体は動かなかった。眠りに落ちたというよりも、思考が遠くなった、という感覚のほうが近いように思える。意識がなかったのは確かだけれど、眠れた感覚がなかった。
廊下の壁に左手をつきながらリビングへと入ると、そこにはすっかり見慣れてしまった、けれど未だその存在には慣れることのない蛍石の髪の少年の姿があった。
「……帰ってたんだ」
その声にくるりと振り返ると、ナナイはひとつ欠伸をして、どこか黒猫を思わせる褐色の美貌の口元をにやりと歪ませ、くっくっと笑った。
「あそこまで言われたんなら、言っちゃえば良かったのに」
「……なんの話?」
「あれだけ熱烈に抱きしめられて、あんなこと言われて。本当、妬けるったらないのにさ、……ねえナツメ、本当にお前は、シュウゴとどうにかなりたいって気があるわけ?」
思わず、一歩後ずさった。そこにあるのは壁紙のざらりとした感触ばかりで、夏芽をナナイの紫の視線から、違う顔から放たれる同じ音色の声から、庇ってくれるものはなにもない。気づけば、身を縮みこませていた。吹きさらしの雪原で、地吹雪から自分の身を守るかのように。
「見てたんだな」
けれど、それに対する返答はない。そしてナナイは自分の問いの答えを得たのだろう。その顔に蔑みに似た色が浮かんだように夏芽には見えた。
「悪いけど、あんなんで手に入る奴がいたらそれは相当物好きだと思うね。お前は自分で状況を変えるのが怖いだけなんだろ」
「……だったら?」
声が尖ったのが自分でもわかった。仕事以外で出したことのない声が、ナナイを相手にしていると、知らず喉から零れるのに、夏芽は気付いていた。夏芽の作り上げた「彼」の台本にない感情が、勝手に書き加えられていくようだ。
「ナナイ、きみはなにがしたいんだ。どうせ、明後日には帰るのに、こんなことをしてなにが楽しいんだよ」
頼むから、引っ掻き回さないでくれ。放っておいてくれ。苦しくても、辛くても、あの時までは耐えられていたのだから。少なくとも彼の前では笑っていることができたはずなのだから。
多分もう、元には戻れない。これだけ役を作っても、自分の言葉を捨てて、誰からもそれなりに好かれるけれど、誰の特別にもならない「降森ナツメ」を演じても、それでも支倉にあんな顔をさせてしまえると、知ってしまったから。どうしたらいいのかなんて、もうわからない。
「ボクは、面白く生きたいだけだよ。どうなるかわからないことが楽しいんだ。恋愛なんて、そういう意味では最高だよ。一秒先に何がどうなるかさえわからないんだからねぇ」
「その割に元の世界ではいつもひとりじゃないか」
「興味を惹かれる相手がいなかっただけだよ。ボクが誰彼構わずヤりたいような奴じゃないってことぐらい、『中の人』なら知ってるだろう? そうだったら代行者になんかなってないさ。それよりリーネたちを構ってるほうが面白いけど、こっちにはあいつらもいないしね。で、さ」
ナナイが笑う。どこか不穏さを帯びた、チェシャ猫の笑みで。
「どうせ五日間だ。見たことないものを見物しつつ、せいぜいお前たちふたりをからかって遊べればいいかと思ってたんだ。シュウゴのこと気に入っているのは、確かだしね。でもさ」
ナナイの紫水晶の目に射抜かれて、背中にぞわりと這い上がってくるような悪寒がした。神の代行者、すべてを知る者。自分は「そちら側」だったから、気付くことがなかった。それと対峙することが、如何なる意味を持つのかを。
「……気が変わった」
ナナイが一歩、夏芽へと歩み寄った。思わず一歩引こうとしたけれど、とうに壁際に追い詰められている夏芽に逃げ場所などなかった。
「お前があの程度までしかできないなら、ボクにだってまだチャンスは残されている。時間だって、後二日、ある。十分とは思わないけれど、無理ではないね」
なにが、と言う声が掠れた。いつかのような、体調や酒で演技が鈍っているのではなく、足元から脳髄までじわじわと迫る恐れが、喉を塞いだ。
「どうせお前は動く気ないんだろう? いらないんだろう? だから、ボクがもらってあげる」
シュウゴを。そう、囁く声に、夏芽はぞっと身を震わせた。
「なっ……」
「あっれ、何を今更そんなに慌ててるの? だってどうせ、お前は一生、シュウゴに手を伸ばすつもりはないんだろ。だったらボクがなにをどうしようと自由じゃないか」
「それはっ」
その通りで、何も言い返せなかった。確かに、支倉に思いを告げるつもりなどなかった。辛いけれど、苦しいけれど、それでも動くつもりはなかったし、動けない。
だから、支倉が誰かと付き合うことになったって、それに気を悪くしてなんかいけないんだ。あれだけの男だ、いつか良い女性と出会って、結婚して、家庭を持って。それを祝ってやる覚悟だってあったはずなのだ。別に相手が男だって構わない。彼がこんな空っぽの自分の隣にいてくれる未来なんか想像できなくて、そもそも自分は彼に思いを告げるための声を持たない。
仮にこの本当の心が思いを忍ぶことに耐えられなくなったとしても、「彼」の声で、「彼」の言葉でそれを支倉に告げるのだけは、絶対に嫌だった。それがどんなに、他人から見れば理解不能で、つまらないこだわりであったとしても、それだけが夏芽にとって、夏芽が夏芽であるための最後に残された矜持だった。
「……でも、きみは神の代行者だろ。仮に支倉君がきみを選んだとして、それにしたってあと数日しかきみは東京には留まれない。それで、きみは満足なのか」
情けなくも、夏芽は縋るように、その言葉を口にした。期限は確か十日。それ以上同じ町に留まることは、代行者には許されない。果たしてこの細かく区切られた東京で、どこからどこを以って同じ町とするのかはわからないけれど。そういえばSeven Godsの町は城塞都市や壁や柵に囲まれているのが普通だった。
だから、仮に支倉を手に入れても、あと数日で東京を去らなければならない。テレビアニメデビューがSeven Godsであり、しかもまだ金に困っていた頃に自腹でBD初回版を全巻買い、ドラマCDまで揃えている支倉がそのことを知らないはずもない。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい