この心が声になるなら
どうしてきみは、そんなに悲しそうな顔をするんだ。自分の声で、言葉で、表情で、誰かがそんな顔をするのが嫌だったから、それを捨てたのに。
「ねえ、降森さん。まだ、あなたに頼ってもらうには、俺は足りないですか?」
抱きしめる腕に、ぐっと力が篭もった。支倉の体温をより強く感じて、苦しい。
「年のせいだったら、俺は死ぬまであなたには追いつけません。だからせめて、仕事とか、人としてとか、少しでもあなたに追いつきたいって、ずっと思ってます。まだ足りないですか?」
支倉の声が、熱を帯びて熱い。どう返していいかわからなくて、夏芽はただただされるがままだった。
買いかぶり過ぎだ。そこまでしてもらう価値なんて、自分にはない。けれど、それを口にしたら、きっと支倉はもっと傷つくだろう。それぐらいは、わかる。
「降森ナツメ」という役柄を演じる台本にないこの状況で、どんなセリフが適切なのかがわからない。こんな状況、「彼」には起こり得ないはずだったのだ。避けて来たはずだったのだ。実在しない「彼」への想いを受け止めることが苦しいから、そんなことにならないように。
言葉はなかった。ただただ、支倉の心音と息遣いだけが鼓膜に届いた。眠るときに耳につく、自分のそれとは違う音、違うリズムを刻む。
「……ごめんなさい、変なこと言って」
しかしその体温と音は、すっとこの身体から離れていった。喪失感にはっと顔を上げる。こちらを見下ろすその顔は、優しくて、だけど、ひどく寂しそうに見えた。
「支倉君、あのっ」
言いかけた言葉が、なんなのかすらわからなかった。ただ、その悲しい顔をこれ以上見たくなかったから。けれど、支倉はその悲しさや寂しさを表情に残したまま、やんわりと笑った。
「頼ってもらいたいなんて、わがまま言ってごめんなさい。そんなこと思ってるあたりで、まだまだですよね。……なんか、恥ずかしいこと言っちゃいました。嫌だったら忘れてください」
「ちがっ……違うよ、嫌なんかじゃない」
声としゃべりで活計を立てている人間とは思えない、上手く回らない舌で、声を紡いだ。まるで、「彼」の声ではないみたいだ。自信のない、何を言うべきかすらはっきりとはしていない、その声。支倉が頼りないからじゃない。ただ、頼り方がわからないだけ。受け止めてもらうという感覚が、わからないだけ。
嫌なんかじゃない、その言葉に、それでも支倉の白い顔から、悲しみの色が消えることはなくて。ごめんなさい、出過ぎたことをしました、そう言って戻って行く後ろ姿を見送りながら、ただただ、自己嫌悪と後悔ばかりが胸を焼き焦がした。
(誰かにあんな顔、させたくなかったのに)
一番、笑っていてほしい相手に、あんな顔をさせてしまった。悲しい思いを、させてしまった。一番、大好きな人に。
結局どんな方法を取ろうとも、自分のせいで傷つく人がいるという事実は変わらない。二十年以上前の、もう十年近く顔を合わせていない母親が、夏芽の言葉に表情を歪ませた様子が、頭から離れない。忘れたと、思っていたのに。
(いつまでたってもこんななら)
声を出せず、涙も零れることのないまま、夏芽は思う。
いっそのこと、消えてしまいたい、と。誰も傷つけることなく、忘れられたように、この夜の暗闇に溶けるように、いなくなってしまいたかった。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい