この心が声になるなら
「勘です。だけどきっと助けてくれるって思ったんです。ほんとうの心って、声に出るから」
当たってました。そう口にした支倉の表情にほんの少し、先程までの悲しみやせつなさとは違ったものが混じったように思えた。
『俺の役、盗賊Cです。お願いします。盗賊Cの出るシーンの前後だけでいいです、声に出して読んでください』
予想だにしていなかった、けれど必死さを感じる声に、夏芽は状況が掴めずに一瞬呆気にとられた。台本を読んでくれ、という頼みの意図がさっぱりわからない。困惑していると、男はすっと立ち上がり、夏芽の手を取った。
なんて大きい子なんだろう。色も白いしハーフかなにかだろうか。座っていても大柄だとは思ったが、立ち上がると完全に見上げる姿勢となって、夏芽は目を見張った。夏芽の驚きをよそに、彼はすっと手を引いてあまり人のいない方へと夏芽を連れて行き、小さな声で、言った。
『俺、生まれつき文字がちゃんと読めないんです。そういう、障害なんです。音を覚えるのは得意なんで、人に読んでもらって台本全部覚えるようにしてたんですが、今朝いつも読んでくれてた人と喧嘩してしまって、マネージャーもいなくって。お願いします。一度でも聞けば覚えられます、お願いします……!』
夏芽よりも頭ひとつ分背の高い、体格もがっしりした若い男が、まるで小さな子どものように見えた。言いたいこと、聞きたいことがないわけではなかったが、断る理由はなかった。
『いいよ。ただ時間がないから、本当にきみの出る前後だけだけど、大丈夫?』
そう言うと、ぱっとその顔が明るくなった。そうして見れば随分と整った、目鼻立ちのはっきりした顔立ちで、日本人離れした体格の良さと併せ、どうして彼は声優の道を選んだのだろうとふと思ったけれど。
『ありがとうございます! お願いします! あ、俺、支倉修吾って言います、あなたは?』
独特の柔らかさと厚みのある低い声に、どうしてか頭に過ぎったのは、幼い頃に飼っていた愛犬のふかふかで分厚い毛皮に全身を埋めたときの感触だった。体の芯から心地よくなるような、安心するような声音だった。
『僕は降森ナツメ。よろしく、支倉君』
夏芽が差し出した、骨ばった大きくはない手を、声と同じように厚みのある、けれどごつごつして硬い手が、ぎゅっと掴んだ。
そして本当に、彼は夏芽が一回読み上げただけで前後のやりとりを含めてすべての台詞を覚え、リハーサルで問題なく読んでのけたのだ。
「あの時、降森さんが声かけてくれて、助けてくれて。そうしてもらってたら、なんか自分が物凄い馬鹿な奴だって、気付いたんです。そりゃ、字ぃ読めないのはハンデだと、今でも思います。読めたらいろんなことできるし、仕事だってもっと楽になるのになって。それでも、嫌なこと全部そのせいにして、やれることもやらなかったり、人に当たったり、誰も信じられなくなったのは、俺が悪かったんです。ちゃんとそこに向き合えてれば、あんなに、最低の奴にならなかったんでしょうね。彼女に未練は全然ないですけど、謝りたいって気持ちは今でもありますもん。あの時の俺、本当に最低でした」
「……どうして、あの時僕には話そうと思ったの」
「だから、声です。俺、降森さんの声すごくすごく好きで、聞いたらほっとして安心して、助けてくださいって言えちゃったんです。降森さんを信じて、やっぱり声の印象通りの優しい人で、降森さんを信じられたから、俺は他の人も信じてみようって思えたんです。だから、降森さんがいなかったら、今の俺はいません。降森さんが東京のお母さんみたいだって言ったの、ご飯が美味しいからだけじゃないです」
そういえば、支倉に最初に料理を食べさせたのも、あの日だった。お礼をさせてください、なんでも奢りますと言う彼に後輩に奢ってもらうなんてできないと言って、家に連れて帰ってカレーを振る舞ったのだった。最初は申し訳なさそうにしていた彼が、一口カレーを口にした瞬間瞳を輝かせたのが嬉しかったのを覚えている。誰かに料理を振舞って喜んでもらうのは、本心から好きなことだったから。
記憶の中の少年と大人の境界線の顔から、今やはっきりと青年になった支倉は、ふたりが共通して仲の良い後輩の名前を挙げた。
「あいつ今、大学で心理学習ってるじゃないですか。こないだも収録の合間に一生懸命勉強してたから、どういうこと書いてあんの、って聞いたら」
子どもはまず親を信頼して、親を信じられるから人を信じていいとわかって、他の人を信じられるようになる。ざっくり言うとそういうことだと、支倉は言った。
「降森さんを信じて、そこから他の人も大丈夫かなって思えて、……そうやって頑張ってたら、俺が勝手に思ってたよりずっと、俺の周りは優しかったって気付けました。だから、全部降森さんのおかげなんです」
ああ、その目が、眩し過ぎる。とうに太陽の落ちた世界の中でも、きらきらと輝く黒い瞳が。
「……違うよ」
まっすぐな信頼が、優しさが、この空っぽの心身で受け止めるにはあまりにも大きすぎて、夏芽はぽつりと呟いた。
「全部、きみ自身の力だ。僕は何もしていないよ。僕はそんな大それた人間じゃない。きみは、知っているでしょ?」
この世界でたったひとりだけ、本当の夏芽を見たことがあるのが、彼なのだから。誰一人にさえ、感情を、心を見せることのできない、言葉すら話すことのできない、本当の自分。しかし支倉は首を小さく振る。
「そんなことないって、あの時も言ったでしょ。演技しないとそれができないと思ってても、そうしたいと思ってくれたんだから、それは俺の好きな降森さんだって」
好きだなんて、軽々しく言わないでくれ。嬉しいのに、心が軋む。自分の思いの汚さが、情けなさがつきつけられているようで。
「あんなふうになってる後輩がいたら、声をかけるのが当然だよ。きみだって、いつもそうしているじゃないか」
「それは、降森さんが俺にしてくれて嬉しかったから、自分も他の人にそうしてあげようって思ったからです。それに、一番最初に声を掛けてくれたのがあなたなのは間違いないです」
「でも、それは」
「降森さん!」
言葉を遮るように、ぎゅっと大きな腕で抱きこまれた。顔が支倉の胸に押し付けられて、声が出なくなった。どくどくと、支倉の心音がやけに大きく耳を叩く。温かな体温が服越しにも伝わって、夏芽の心臓も早鐘のように鳴り走った。
「降森さんは、俺にとってすごくすごく、大切な人なんです。だからっ……俺の大事な人を、そんなに嫌わないで……!」
自分が大嫌いだなんて、消えてしまいたいだなんて、いつだって思ってはいても口にしてはいない。なのに、その声が、本当に泣きそうで。まるで、
(僕がなくした声も、表情も、代わりにきみが表現してくれてるみたいだ)
「嫌って、なんか」
いないよ、という言葉が、心と声帯の間のどこかでふつりと消えた。隠し事はできても、嘘はつけなかった。支倉に対してだけは。それが、彼への恋情によるものなのか、いくら取り繕ったところで本当の姿を知られているからなのか、それとも、夏芽を信頼して本当のことを話してくれた彼に対する礼儀だからか、それさえ夏芽にはわからない。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい