この心が声になるなら
「中学の担任にね、親は掛け合ってくれたんです。勉強できないわけじゃないから、普通の高校受けさせてやりたいって。でも、駄目だって。どうせ普通の仕事には就けないんだから推薦で農業高校行って家継ぐほうが楽だろって言われたんです。あ、農家ディスってるわけじゃないです。農作業やってるじいちゃんたちはすごく格好良いし、別に俺が普通でも、家継いで農家やるってのは考えたと思うしもしかしたらそうしてたかもしれないです。でも、普通にはなれないってはっきり言われたのが、結構ショックだったんです。わかっては、いたんですけど」
もう一度、支倉の手が、夏芽に触れた。その指先は微かに震えていた。先刻みたいな力強いそれではなくて、触れることを躊躇うような、かすかな熱。
「……だからね、あの時も、そのせいだって。俺が普通じゃないせいだって。どうして俺ばっかこんな目に遭わなきゃなんないんだって思ってたんです。あなたが、声をかけてくれるまで」
あの日。
支倉が彼女に見限られた日。
ふたりが初めて出会った日。
支倉のテレビアニメデビューの日で、あの作品における夏芽の二回目の収録の日。
――Seven Gods第五話の収録のあった、五年前のあの日。
その日、支倉が目覚めたとき、既に彼女の姿はなかったらしい。置かれたメモには、もう疲れた、実家にも支倉の家にも戻らない、探さないでほしい旨書かれていた。そのメモはしかし、それでもすべて平仮名で、大きな字で書いていてくれたそうだ。支倉が、自分で読めるように。
支倉は、生まれつき文字を読むことに困難を抱えている。それがどういう状態なのか、夏芽にはイメージすることができない。夏芽にとって字は物心ついたころには当たり前に読めるものであり、読めない、という感覚自体を最早思い出せないからだ。彼の行動や言動、卓越した記憶力、物語や言語の理解力の高さに比して読み書きが極端に苦手であることに最初に気付いたのは小学校の担任だったという。今も漢字はほとんど読めないし、かな文字や数字は読めるものの時間がかかる。ここまでは、ある程度親しい人であれば知っていること。
それを代償するかのように支倉に与えられた天賦の才は、記憶力と、音に対する人並みはずれた感覚、それに恵まれた容姿と声だった。また、目立つことや人前に立つことが大好きだった少年は、それらの能力を活かせる仕事をと望み、役者の道を志した。高校時代にも地元ローカル番組に出演したり、地域情報誌の表紙を飾ったりしたことがあるらしい。しかし、2メートル近い身長と抜けるように白い肌という日本人離れした美貌は、逆に演じられる役の幅の狭さにも繋がってしまった。所属事務所が俳優から歌手から芸人から声優まで手広くやっていることや、本人がアニメ好きであったこと、音だけで演じる世界であることから、本人の音に対する感覚を活かせるだろうということもあり、声優の仕事もやってみてはどうかと事務所に勧められた。高校卒業以降のこの経歴は、そこそこ近しい人であれば大体知っている。
上京した後の彼を支えていたのは、故郷にいた頃から付き合っていた彼女だった。都内の私大に進学する彼女と共に上京し、同棲していた。書類はすべて彼女が処理してくれ、台本も一度彼女に音読してもらい、それを丸暗記して仕事に臨んでいたそうだ。読字障害のことは、担当のマネージャーにしか話さなかった。慣れない街、慣れない生活の中で、誰を信じていいかわからなかったから、と彼は言う。一度嫌がらせで振り仮名を振った台本をすりかえられたこともあったらしい。これは、多分夏芽だけが知っていたこと。
「どこかやけっぱちになってたの、きっと態度に出てたんですね」
自分で選んだ道、の、はずだった。けれどそれは、いろいろなことを諦めてのことだという気持ちが、本人でも気付かない心のどこかで燻っていたのだと彼は言う。
普通にできるはずのことが、できない。
普通には生きられない。
上手くいかないこと、失敗したこと、怒られたこと。それは不運もあったし理不尽なものもあったし自分が至らなかったからということもあった。けれど、それらすべての矛先が向かったのは、「どうして自分だけ、まともに生まれてこれなかったのか」という思い。
「それでイラついて、だけど本当のこと言える相手も彼女ぐらいしかいなくて、……支えてくれた人だったのに、大事な人だったはずなのに、大切にしてあげられませんでした。俺が悪いのに、優しくしてあげられませんでした。だから出て行っちゃったんです。なのに、あの日の俺はまだ馬鹿でアホで、どうしていなくなっちゃったのかも考えないでひとりで怒って」
台本を覚えていないのに気がついたのは、現場に行く途中の電車の中だったという。前日の夜音読を頼むはずだったのが喧嘩になり、そしてそのまま、彼女は出て行ってしまったから。
「どうして俺ばっかりこんな目に遭うんだって思ってたんです。彼女にした仕打ちも、大して仕事もなかったのに台本確認するの後回しにしたのも、全部棚に上げて」
――これは、夏芽も初めて聞く話。
けれど、悪態をついてばかりもいられない。その日は、支倉のテレビアニメデビューの収録だった。移動中も必死で一応カバーをかけた台本を一文字一文字追っていく。それでも、電車が揺れるたびにどこを読んでいたのかを見失ってしまう。そうならないように指先で追っていても、くしゃみをした拍子に指がずれたらそれで水の泡だ。結局、スタジオに到着するまでに自分の出番にさえたどり着くことができなかったそうだ。
スタジオについても、挨拶もそこそこに必死で台本を読もうとした。しかしどう考えても、リハーサルまでに読み終えられるはずもない。
折角掴んだチャンスさえも、こんなことで手から零れ落ちていくのか。もういっそ、全部諦めて故郷に帰ろうか。その時だったんです、と、彼は言う。
『どうしたの? もしかして具合、悪い?』
スタジオの隅で、大きな体を縮こませるかのようにしている姿が妙に目に留まったのを、夏芽は覚えている。入ってくるなり隅へと向かい、焦ったようにぶつぶつと、しかしゆっくりと台本を読む姿は、はっきりと異様だった。
「あなたが、声をかけてくれたんです」
その声に、ふらふらと顔を上げたときの支倉の顔も、夏芽は覚えている。不安そうに視線がふらふらと彷徨っていて、大きな黒い瞳はひどく疲れているように見えた。どう見ても、自分よりも若い、青年と少年の間ぐらいの年代の男の表情には見えなかった。
けれど、次の瞬間、その男は夏芽の手をぐっと掴んで、こう言ったのだ。縋りつくような、けれどどこか安心したような顔で、『台本、読んでもらえませんか』と。
「この人だったらきっと、信じても大丈夫だ。声を聞いたときに、そう思ったんです。こんなおひさまみたいな色の声の人が、悪い人のはずがない、って」
おひさまみたいな色の声。支倉はしばしば夏芽の声をそう形容する。大多数の人とは違うかたちで音を知覚しているらしい支倉の感覚を、夏芽が実感することはできない。けれど、それが褒め言葉であることは、それを口にするときの彼の様子を見ていればわかった。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい