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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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この心が声になるなら

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 夜というには早いけれど、ほとんど陽の落ちた薄暗い道をとぼとぼと歩き始めた。主に学生向けの安いマンションが立ち並ぶこのあたりだけれど、今の時間帯は妙に人気がなく、一本向こうの通りから車の音が聞こえるばかりだ。今日はもう予定もないし、普段決してこれだけはなくなることのない食欲すら沸いてこない。急いで支倉の家を飛び出す理由はあっても慌てて帰宅する理由はひとつもなくて、二キロほどの家路を徒歩で帰ることにした。
 けれど、その半分も行かないうちに、聞き慣れた、大好きな声が聞こえて、この足は動きを止めた。振り返ることはできなかった。
「降森さん!」
 どうして、追いかけてくるんだ。腰を落ち着けてもいないのだから、忘れ物もしていない。ナナイを置いてきたこと以外は。
「どうしたの、支倉君。ナナイは?」
 一応振り返り、だけど顔は上げないまま、夏芽は聞いた。長身の支倉の膝を曲げた脚だけが目に入る。息を整える音が聞こえる。
「降森さんのほうが心配だったんで、置いてきました。あの後直ぐ寝ちゃったから毛布かけて、あと起きたときに勝手に飲まないように、残った酒全部金庫に入れて鍵かけてきました」
「…………そう」
 ごめんね、手間をかけさせて。そう言おうとしたその時、それよりも先に支倉が口を開いた。
「ごめんなさい」
 視界に入ってくる、支倉の黒い髪。頭を下げられているのだと気付いて、夏芽は顔を上げた。
「どうして、きみが謝るの」
 そう言うと、支倉も頭を上げた。日本人離れして極端に背の高い支倉と話すときは、どうしても見上げるかたちになるけれど、今日は目を合わせることができなかった。今の顔を、見られたくないから。
「気付いてあげられなくて、ごめんなさい。俺、ナナイが降森さんに意地悪してるって知らなかったんです。俺に対しては全然態度違ってたから、びっくりしました」
「……ナナイはきみのことがすごく気に入ったみたいだったからね」
 声は出た。話すことはできている。そのはずなのに、どうしてこんなに空回りしているような気がするのだろう。
「シュトルとかリーネに対してだって、あんなような態度でしょう。気に入らない相手に対しては本当に酷いし。まあ、大丈夫だよ。あと二日だし、仕事があるからほとんど顔だって合わせないしね。彼は彼で、この世界の観光を楽しんでいるみたいだし」
「無理しないでください。あんなんじゃ家でも休めないでしょ。やっぱり俺が預かります」
「いやいいよ。支倉君だって忙しいんだから。僕は大丈夫だよ」
「でも」
 ふと、肩になにかが触れて、驚いて顔を上げた。それが支倉の大きな手だと気がついて、びくりと体が震える。目に入った支倉の顔は、どうしてか、泣きそうにさえ見えた。
 どうしてそんな顔をしているんだ、そう尋ねようとして、しかしまったく同じ問いが、支倉の唇から発せられた。
「だったら、どうしてそんな顔をするんですか」
「そんな、顔って」
 きっと今自分は、いつもと同じ穏やかな笑顔を顔に貼り付けているに違いない。どんな顔をしていいか、わからないから。笑うのも不自然だけれど、怒ったり悲しんだりといったネガティブな表情を見せていいのかもわからないから。
 なのに。
「すっごく、悲しそうな顔してます」
 それは、きみじゃないのか。そう思ったけれど、言葉にはならなかった。支倉の形の良い大きな黒い目が、うっすらと揺らいで見えたのは、それが今にも泣きそうに見えたからだった。
 じっと見つめるその視線があまりにもまっすぐで、その顔を見ているのがひどく苦しかった。けれど、ずっと見ていたいと思った。
 母に、周りの人に、こんな顔をさせたくなかったから、声を、言葉を、表情を、捨てたはずだったのに。支倉の持つ、自分がかつて捨てた何かが、どうしようもなく愛おしかった。
「言いたくないなら、無理に話さないでもいいです。あなたが人の悪口とか愚痴とか言うの聞いたことないのもわかってます。でももし何かあるんだったら、俺でよければ聞かせてください。降森さんが辛かったり、泣いてたりしてたらって思うと、俺はすごくすごく苦しいんです」
 よりによって、きみに言えるはずがないだろう。きみが好きだなんて。自分にはない魅力に溢れ、真っ直ぐにアプローチできるナナイに、嫉妬しているなんて。
 情けないところを見られてばかりだ。けれど本当の自分はこんなもので、もしもそれを愛してもらえたなら、などと妄想してしまう。ありえない。だからせめて、しっかりした頼れる先輩でいたいのに。それが作りものだとばれていても猶、一緒にいたいと思ってもらえるような。
「俺は降森さんみたいに頭良くないです。年だって下です。ちっともしっかりしてないし、さすがに能天気過ぎるって最近いい加減わかったし、全然あてにならないって思うけど……降森さんがつらいのが、悲しいんです。喜んでほしいんです。降森さんは、俺が一番どうしようもなかったときに、助けてくれた人だから」
「……っ」
 厚みのある優しい声が、それと同じだけ温かな手が、嬉しくて、悲しかった。その手のひらに、ぎゅっと力が込められたのがわかった。
「ねえ、降森さん。俺がどれだけ降森さんに感謝してるか、どれだけあなたの役に立ちたいって思ってるか、伝わってますか? 多分降森さんが思っているよりずっと、ずっとずっとです。降森さんがあの時声をかけてくれなかったら、今の俺はないです。この仕事から逃げて、東京からも逃げて、きっと実家に帰って全部周りのせいにして文句ばっかり言ってる、ほんとにどうしようもない男になってたと思います。ほんとはあの時もう、半分諦めかかってたんです。どうせ実家帰れるし仕事もあるからうち継げばいいやぐらいに思ってました」
 あの時。支倉の言うそれは、きっと出会った日のこと。夏芽にとってはほんの些細な出来事で、当たり前のことをしただけだった。けれど、それを口にすると、支倉は首を振った。
「それを当たり前だと思える人だから、好きなんですよ」
 いつも通りの真っ直ぐな彼の言葉。嬉しくて、切なくて、息が詰まる。
「あなたがしてくれたことは、あの日の俺の仕事をなんとかしてくれたことだけじゃないです。あれよりもずっと前から、多分、行きたい高校受けさせてもらえなかったあたりから、折れたっきりだった俺の心を叩き直してくれました。あなたがしてくれたこと、言ってくれた言葉全部、俺ちゃんと覚えてます。絶対忘れません」
 折れた心。その言葉に夏芽は思わず目を見張った。支倉の黒い大きな瞳を見上げる。初めて聞いた言葉だった。彼の抱えるものを少しは、少なくとも他の同業者よりは知っていると思っていたけれど。支倉の両親は一度会ったことがある。彼がこんな性格に育ったのも納得がいくような優しい印象のふたりだった。息子の進路を勝手に決めるような人には見えなかった。受験、親御さんが、と思わず呟くと、夏芽がどう言葉を受け取ったのかを理解したのだろう、肩にかけていた手を外してばたばたと振り、違います、親じゃないです、と言った。