この心が声になるなら
音だけを聞いて、画面を確認しないで直ぐに応答をタッチする。支倉ほどではないにしろ、夏芽も記憶力はそこそこ良いほうだ。それなりに頻繁に電話をする相手の着信音は全員それぞれ違う曲を設定しているから、いつも画面は見ない。
だから、この曲がかかると、心臓がひとつ高鳴るのを止められない。少しだけ指先が震えた。
「あ、降森さん、あの、えっと、今大丈夫ですか!?」
慌てた声にどうしたの、と返す。声の後ろでなにやらどしんばたんと騒がしい音がした。
「……どうしたの」
音だけ聞けばまだ夕方だというのに宅飲みもたけなわとなってきたかのような雰囲気だ。ただ、支倉の家で飲むような面子で、夏芽が引取りを頼まれるような関係の人はいない。
「えっと、ナナイが酔っ払っちゃったんですがどうすればいいですか……!」
「は!?」
思わず大声を上げてしまった。そのまま早足に入って比較的直ぐの自分の部屋の扉を開ける。中には誰もいなかった。
「ごめんなさい! その、あの、未成年だって忘れてて」
「ていうか、なに、ナナイ今支倉君の家にいるの?」
「えっ、降森さんに言わないで来ちゃったんですか?」
しん、と沈黙が流れた。つけたばかりで不安定な玄関の蛍光灯の音と、外を走る車の音、それに支倉の背後から聞こえる、自分と同じ声の笑い声だけが耳をつく。
「……とりあえず、すぐに引き取りに行くからちょっと待っていて、迷惑をかけてごめんね」
開けたばかりの鍵を掛け直すと、玄関ホールの自動ドアを走り抜け、直ぐにタクシーを拾った。自転車で行ったほうがいいぐらいの距離だが、それでは帰りにナナイを積んで帰れない。
一度住所を指示すると、ちゃんと土地勘のあるらしい運転手は目的地までの十分弱、道を聞いてくることはなかった。その間、表情は少しも動きやしないまま、思考は回る。どろどろの原油を頭から被ってしまった海鳥のように、重く、もどかしく。
何故支倉の家を知っている。どうやって行ったんだ。そんな疑問は直ぐに消える。彼の住所どころか所在も予定も、ナナイには手に取るようにわかるのだ。その上彼の家の鍵はナンバー式だから、内鍵を掛けられていない限り、暗証番号が判れば入ることだってできる。それよりも、なにをしに行ったんだ。どんな会話をしたんだ。支倉はどんな対応をしたんだろう。
ナナイに取られるわけがない、どうせ、あと二日しかないんだ。たった五日程度、それも夏芽も支倉も忙しくてほとんど家にいないから、会う機会すらこれで二度目、の、はずだ。だいたい、ナナイが彼にそこまで執着を示す理由もよくわからない。一目惚れに近いものなのかもしれないけれど、正直夏芽はそんな恋愛の形式が実在するのかと疑っていた。今まで一目で恋に落ちる、もしくは落ちられる役は何度も演じてきているけれど、自分がそんなことと関係すると思ったことは一度もない。見た目とか雰囲気だけ、それっぽちのことで人を好きになれるなんて、とてもとても思えない。自分が本質的に警戒心が強くて、ある程度以上付き合いの長い相手のことでないと好きになれないせいかもしれないけれど。
(ただまぁ、面食いってこともあるしな……)
一目惚れで恋愛できる人間がいるとして、そういう人が好きになるのは、支倉みたいなタイプだろうと思う。顔も声もそれ単体でも金になるほど魅力的で、道を歩けば目を引く飛び切りの長身、表情も雰囲気も見るからに柔らかくて穏やかそうで、第一印象が悪いはずがない。それに比べて自分は、声はともかくとして見た目は悪くも良くもない。穏やかな雰囲気は演じられているとは思うが、そもそも外見があらゆる意味で目を引かない。目に留まらない以上一目惚れされることもありえない。
(そういえば支倉君って、どういう恋愛する人なんだろう)
夏芽と出会う直前に地元にいた頃からの彼女とは別れていて、本人の言葉を信じるならばそれきりフリーだという。前の彼女が小中の同級生で高校生の頃から付き合っていたことと別れた顛末についてはかなり前、それこそまだ夏芽が支倉に恋をしてしまうより前に聞いたことがあるが、そういえば付き合ったきっかけについては知らない。
(一目惚れとか、しちゃうタイプなのかな)
元々期待なんかしていない。アプローチもしていない。だから胸が痛む資格なんて、ない。
(だから、ナナイを止める資格なんて、ないんだ)
そんなことを回転の鈍った頭で考えているうち、タクシーは支倉のマンションの前で止まった。共用玄関で部屋の番号を押すと、ややあってぽん、という音と共に支倉の低い、しかしどこか慌てたような声がする。そんなに設備の新しくない彼のマンションのインターフォンは音声しか伝わらない。降森です、と名乗ると、明らかにほっとした声がして、自動ドアが開いた。エレベータのボタンを押し、五階にある彼の部屋を目指す。最上階で待機していた古いエレベーターは遅く、外に出て無用心にもドアが開け放たれている非常用螺旋階段を駆け上ったほうが速そうには思えたが、三階以上の部屋ならばベランダにすら出たくないほどの筋金入りの高所恐怖症の夏芽にとって、これだけの高さの外階段は辛い。
なかなかやってこないエレベータをじりじりとした思いで待ち、やっと支倉の部屋に着いたときには数分が経っていた。部屋の扉にはスニーカーが挟み込んであり、直ぐに夏芽が入ってこれるように開けておいてくれたのだろう。インターホンも鳴らさずに部屋に飛び込むと、ワンルームの真ん中で、ナナイが真っ赤な顔でけたけたと笑っていた。ビールの匂いが鼻をつく。
「あ、降森さん! ごめんなさい急に」
「こっちこそ、ごめん、ナナイが迷惑をかけて」
夏芽の姿を認めると、ほっとしたように笑ってくれる。しかし次の言葉に夏芽は首を捻った。
「いいんですよ。降森さん今日用事あったのに、わざわざ来てもらってごめんなさい」
「気にしないで、僕は今日はもう全部仕事終わったところだから」
「ナナイがひとりで来たからてっきり仕事だと思ってたんですけど、違うんですか?」
なんだそれは、状況がまるでつかめない。話が噛み合わない。どういうこと、と口にすると、支倉の大きな目が丸くなる。
「え、ナナイから聞いてないですか? 俺今日仕事終わるの早いって言ったら、一緒にご飯でも食べないかって言われたんです。俺は全然暇だったから、だったら家に帰ったら降森さんに来れるか聞いておいてねって頼みましたよ」
そんな話、聞いていない。声の震えを抑えながら、夏芽は尋ねた。体温が下がっていくような、冷たい感覚。それ、いつ決めたの。そう言う声が、掠れた。
「昨日です。夕方駅の近くでばったり会って、ちょっとお茶したんですけど」
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい