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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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この心が声になるなら

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3rd day,噛み合わない時間を繋いで




 なにもかもが嫌になりそうだけれど、それでも眠って目を覚ませば変わらずに朝は来る。
「おっはよーナッちゃん! 我が社の誇る売れっ子だってのにあいっかわらず景気悪い顔してんねぇ? 良いもん食べてるだろうにー」
 顔を合わすなりばしばしと肩を叩かれながらそんなこと言われ、更に疲れが重くなるような気がする。今日も今日とて湯上は朝から元気だ。彼のことは尊敬しているし頼りにもしているし好感を持っているけれど、疲れている時にこの調子で来られると、流石に少し参ってしまう。
 ため息をかみ殺しているとスタジオのドアが開いて、ひとりの華奢な女性が入ってきた。彼女を中心に、空気が生まれる、変わる。
「おはようございます」
 市河みなみの硝子のように透明で繊細なその声は、たった一言で騒がしかったスタジオを沈黙させた。その声を発した女性も、同じく硝子細工のような美しさをたたえる。年は二十二歳のはずだが、まだどこか少女のような潔癖さと、それでいて達観したような、どこか浮世離れした表情は、物心ついた頃からこの世界で生きてきたからなのだろうか。
「おはよう、みなみちゃん」
 湯上すらその雰囲気に飲まれたように、落ち着いた声音で声をかけた。おはようございますと小さく頭を下げて返す彼女には、さすがの彼も調子を崩されてしまうようだ。苦笑いをしながらそのまますれ違う。色んな作品で何度も主役カップルを演じているにも拘わらず。
 今回みなみが演じるのは、謎を秘めた正体不明の少女だ。薄倖の美少女であるリーネや、ロボット役など、声質のせいか雰囲気のせいかどこか儚さや感情の薄さを感じさせる役柄が多い。
 彼女特有の存在感や雰囲気、そして声の魅力は、どうしようもなく人を惹きつけてやまない。アイドル的な人気を誇るとはいえ、彼女の美貌や雰囲気は手の届かない、現実感のない美しさだ。ほぼ同世代の優衣が明るい親しみやすさを売りにしているのとは対照的である。また、どちらも声優としてデビューする前に既に芸能界入りしていたという経歴は共通するが、読者モデルとして活躍し、その後自らのアニメ好きが高じて公募オーディションで声優デビューを掴んだ優衣に対し、小学生の頃に天才子役として名を馳せていたみなみ、と辿ってきた道はかなり違う。優衣はごく普通の学校に通い、習い事や部活、趣味三昧のなかなかにアクティブな日々を送ってきたらしいが、みなみは中学、高校共に芸能人御用達の私立に通っており、小学校の頃にはほとんど学校に通えていないという報道もあった。ただ、人懐こくしゃべり好きであけっぴろげな優衣は自分のことについて良く語るし、夏芽や湯上を含め彼女のことをよく知る人は多いが、みなみは無口で特に親しい人もあまりいないため、同業者ですら彼女のプライベートについて噂以上のことを知る人は少ない。うるささとしつこさと面倒見の良さには定評のある湯上ですら必要最低限の会話しかできなかったというのだから、そのガードの固さも大概だ。
(でも本当に綺麗なんだよね、間違いなく。ナナイみたいに本当は漫画の中から出てきましたって言われても、信じるかも)
 声も、見た目も。こんなにも作りものめいて綺麗な女性を、夏芽は他に知らない。支倉が大ファンだというのも頷くしかない。
 芸歴はみなみのほうが数年長いが、年は夏芽が七つ上だ。最初はどう接したものか迷ったが、元々無口なみなみと、あまり人に積極的に話しかけるほうではない夏芽の間では、適当にバランスが保たれている。そう、思っていたのだが。
 おはようと声をかけた夏芽の顔を一瞥すると、突然みなみはぷいと顔を背けてすたすたとスタジオの奥へと歩いていってしまった。清楚な印象を与える薄い水色のタイトなワンピースの背中が遠ざかった。呆気に取られて夏芽はリアクションを取り損なう。一瞬だけ見えたその少女漫画のように整った造作の瞳に浮かんでいたのは、嫌悪に近いそれのように夏芽には見えた。
 別に仲が良くはない。けれど、こんな態度を取られる心当たりもない。それに、いくらなんでも同業者に対してこんな応対をするなんて、長年芸能界で生きてきたみなみに限って、そして二十歳を過ぎた社会人としてありえない。
「……ナッちゃん、お前、みなみちゃんになんかした?」
「いえ……。ユノさん、僕がみなみちゃんになにかしたかどうか見ませんでしたか?」
 思わず湯上とそんなわけのわからないやりとりをしてしまう。湯上は首を振った。
「ナッちゃんぐらいの接し方であんなに嫌われてたとしたら、俺なんかとっくにホームから突き落とされてると思う」
 ですよね、と言い、夏芽は頷いた。基本的にみなみは必要以上に人に関わられるのを嫌がっているように見える。夏芽にしてもそうであるから、湯上らと比べても接点はないはずだ。
「ま、みなみちゃんもナッちゃんも、こういうの演技に響かないタイプだけど、でもああいうことされると雰囲気悪くなるし、そういうのでぐだぐだになるのもいるじゃん。俺とかさ」
 湯上は顔を顰める。今回の現場のメインキャスト最年長は湯上だ。いつもの世話好きの気質もあり全体をまとめようと張り切っているところにこれではやりづらかろう。
「すみません。本当に心当たりがないんです。僕も気をつけるようにしますが、もしユノさんが気付いたことがあれば教えてください」
 湯上は首を振りながら「お前のせいじゃない気がするんだけど、みなみちゃんも無愛想とはいえ意味もなくこんなことする子じゃないような気もするしなぁ。ナッちゃんもあんま気にすんなよ。……女の子はわかんないなぁ」と、いつもの調子とは打って変わって自信無げに呟いた。うちの娘も二十年もしたらあんな感じになんのかね、と遠い目をして言う姿には、夏芽には実感できない哀愁が漂う。ふと見遣れば当のみなみはそんなふたりには一切関心のない様子で、その綺麗な長い指先は台本のページを捲っていた。
(あ、みなみちゃんの携帯にも、ナナイついてる)
 彼女が膝に載せている、マリンブルーの携帯電話には、シュトル、リーネ、ナナイの小さなストラップが揺れていた。硝子製の人形のような彼女の雰囲気とアニメキャラがじゃらじゃらとついた携帯のイメージに少しずれがあったが、あの作品は夏芽だけじゃなくみなみにとっても声優としての地位を確立した作品だったことを思い出す。あの時も幾度となく彼女を場の空気に溶け込ませようと湯上が特攻を掛けては挫折していたのだったっけ。
(ナナイのことは、嫌いじゃなさそうなのにな)
 みなみの携帯が光った。マナーモードに設定してあるらしいそれが震えると、みなみはぱっとそれを手に取って耳に当てた。口元に左手を当てて、そっと部屋を出て行く。
 彼女が歩くのに合わせて揺れるストラップを見つつ、夏芽はぼんやりとそんなことを考えた。

「みなみちゃんって、半年前ぐらいから恋人いますよね?」
 スタジオからほど近い喫茶店でぽろっと優衣が口にした一言に、湯上が珈琲を文字通り吹き出した。吹き出された珈琲の直撃を受けて慌ててポケットティッシュを探す夏芽の隣で、優衣はえ? と間の抜けた声を発し、きょとんとした顔で首を傾げている。