この心が声になるなら
無理はしないでください、明日も赤かったら病院に行ってくださいと言って、支倉の顔が離れていった。それを名残惜しく思うのと同時にほっとした。これ以上近くにいられたら心が持たないし、耳が良く常人とは違う音の感覚を持つ支倉に、どきどきしているのが悟られてしまうかもしれない。
「あれ?」
そう思って気を抜いた瞬間、またも支倉に顔を覗き込まれた。
「どうかした?」
声は平静を保っている、はずだ。その程度の芝居は芝居のうちにも入らない。それでも、目を合わせることは無理だった。まじまじと見つめられて、落ち着かない。
「今日降森さん髪の毛ちょっとだけいつもよりふわふわでかわいくしてるなーって思ってたんですけど、メイクもしてたんですね。グラビアかなんかの撮影あったんですか?」
かわいい。その言葉に、落ち着かせかけた心臓がまた速まった。どうしてさっきからこちらが動揺するようなことばかり口にするんだ、この子は。
「あ、うん。秋頃出るゲームの特集があってね。新人アイドル役でその子のイメージで撮っていたんだ。さすがに衣装は返したけど、髪型と顔の雰囲気はこんな感じだよ。あと声もね」
今の自分がかわいいのは間違いない。それは自惚れでもなんでもなく、この特徴のない顔に、プロのメイクさんが「かわいく」描きあげた作品だからだ。普通の男がするには勿論若干過剰なメイクだ。先程から会う人会う人に言われていたのだが、これだけはっきりした化粧にすら今まで気づかれていなかったあたりで、顔を見られていなかったのかと、少しがっかりした。
「そうだったんですか。その髪型、すごく降森さんに似合ってますよ」
にこにこと告げられる言葉をありがとうと言って受け取る。普通相手の化粧になんてあまり興味はないだろう。男同士なら尚更だ。それでも、似合っていると言われたことは嬉しかった。
「そういえばさっきの言葉を降森さんにくれたのって、誰だったんですか?」
ふと、支倉がそう尋ねた。
「ああ、それはね」
「あ、支倉さーん、そろそろ行くよー」
答えようとしたところで、支倉のマネージャーが姿を見せた。最近彼も仕事が順調に増えてきており、空き時間とアルバイトがどんどん減っている。良いことだ。先を行くマネージャーのほうに歩きだしてから、一度振り返って早口気味に言った。
「例のこと、なにかあったらすぐ電話してくださいね」
何のことかは言われなくてもわかる。夏芽が頷くと、駆け足気味にマネージャーの後を追いかけていった。
支倉を見送った後、夏芽はゆっくりと荷物をまとめた。BLの受役で喉に負担をかける仕事であったし、倒れた後仕事をセーブしていることもあって、今日は後はそう忙しくはない。
忙しくない。
ぞわりと、寒気が背筋を駆け抜けた。大丈夫、それでも暇ではない。
(移動の途中に切らしたコンソメとポルチーニ買っていこう。それで多分ジャストタイムだ)
それぐらいの余裕は前からあったはずだ。倒れるよりも前から。
まだ大丈夫。自分を必要としてくれる場所はある。まだ、大丈夫。
心の中で何度も何度も唱える。そうしないと不安に、押しつぶされてしまいそうで。
肩から掛けた鞄から感じる台本の重みに心を預けるようにして、夏芽はスタジオを後にした。
「ただいま。ナナイ、起きてる?」
家に戻ってきたのは深夜と呼ぶにはまだ早く、それでもゴールデンタイムはとうに過ぎた頃だった。
返事も物音もない。そのまままっすぐに電気の消えたリビングへと向かうと、ナナイはソファで長い足をまっすぐに伸ばして寝入っていた。昨日夏芽が買ってきたゆったりとしたシンプルなグレーとベージュの部屋着を着ている姿は、作品内での彼の姿と比べて物凄く違和感があるが着心地は良さそうだ。誰がどう着てもとりあえず様になるのが特徴のような廉価かつシンプルさが売りのブランドであるにも関わらず、淡く紫の光を放つ銀色の髪や褐色の肌という異国情緒が溢れ返っている容姿の彼には見事なまでに似合っていない。その服のよれ具合や長い髪についてしまった寝癖からして、かなり前に寝入ってしまったようだった。
(やっぱり電気もテレビもパソコンもない世界の人は、夜が早いのかな)
考えてみればSeven Godsの世界で、夜更かしは少ない気がする。昨夜だってあの後、夕飯を食べ終えて夏芽が風呂に入って出てくると、既にナナイは寝入っていた。技術レベルはこちらで言うところの産業革命以前ぐらいのものだから起きていても大してやることもないし、燃料もふんだんに使えるわけではない。特に代行者たちのように常に旅を続けなくてはならない身の上の者達にとって、明かりがなく治安の悪化する夜は寝ていたほうが得策だろう。
ナナイを起こさないようにそっと対面式のキッチンへと向かう。昨日の夜仕込んでいったビーフシチューの鍋を確認すると、冷めていたものの、牛肉や野菜はいい具合に熱が通ってとろりとしていた。オフ以外で誰かが家にずっといることなどほとんどないので、折角の機会だからと今朝出がけにナナイに火の番を頼んだのだ。昨日あんなやりとりをしておいての朝一の会話がその指示だったことに、「お前は本当に仕事と料理以外になにかないのか」と呆れられたが、事実そうであるし、性分だからどうにもならない。もし出かけるなら必ず火は止めろ、夕飯時になったら好きに食べていいと言い残しておいたのだが、鍋の中身の減り具合を見る限り彼の口に合ったようだった。バゲットも半分ぐらいになっている。冷蔵庫にあったポテトサラダも綺麗に消えていた。意外と良く食べるほうらしい。使い終わった食器は手で洗ってちゃんとキッチンの隅っこに置いてあった。作中で描写されたことはないが、まめできちんとした性格のようだ。そういえば、元々はしっかりした家庭の生まれ育ちだったはずだ。躾は行き届いているのかもしれない。外出用の服もきちんと折りたたまれてリビングの隅に置かれていた。
テレビの音量をミュートにしてスポーツニュースの野球コーナーをはしごしながら、温めたシチューを食べた。自分以外の誰かの手が加わったせいか、いつもと僅かに味が違う気がしたけれど、美味しかった。他の人が作った料理は、どうやったって味が違う。それは腕前とか美味しさとかそういうものではなく、ただ、違うのだ。まったく同じ材料を使って、同じレシピで作ったとしても。自分が、支倉と同じ味のお茶を淹れることができないように。
支倉君。
ひとりになった途端、演技をやめた瞬間、支倉の声が、息遣いが、記憶の底から溢れ出した。
『かわいい』『似合ってます』
彼から自分に向けられた、それらの言葉が、ほわりと柔らかな笑顔が。彼の声をした彼じゃない誰かが、自分の声をした自分じゃない誰かに向けた、欲望に濡れた吐息が、声が。
もしもあの声が、自分に向けられたとしたら。
「…………っ」
途端に体の奥がずくりと疼いた。役柄に入り込んでいるときは、それが支倉の声だなんて、息だなんて、思わなかったのに。すぐ隣にいてさえも。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい