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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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この心が声になるなら

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2nd day,空っぽの心を抱えて




『あっ…………ん、ぅ』
 その喉から、濡れた声が零れ落ちる。呼吸は荒く、心臓は早鐘のように打っていて、このまま加速し過ぎて壊れてしまうのではないかというほどだ。黒い双眸はうっすらと涙に潤み、切なげに細められる。
『いい声。もっと聞かせて?』
 上質の毛皮のような柔らかさと厚みのある低い声で囁かれ、ぞくりと体の芯が震えた。
 大きな手のひらがシャツの下から入り込んできて胸元を探られたような感覚。
『っ……』
 息を呑んだ。右手が縋るものを求めて彷徨う。そこにはなにもない。だけど、この手は確かに何かを掴んだ。虚空に、綺麗に切り揃えた爪が立てられる。
『我慢しないで。その声が聞きたくて、どれだけ待ったと思ってるの?』
『だ、だめだめだめっ、そんなとこ……ぁっ』
 触れる手もない。だけど、感覚はある。確かに触れられている。熱を帯びた手に。大きな、男の手に。
『なにしてんの、ねっ、そんなところ、おかしぃ……って……あぁっ!? あ、ぁ……』
 誰にも触れさせたことのない部分に、他人が侵入する感覚。それは、初めての感覚で、彼を戸惑わせた。
 夏芽の身体は、何度も男に抱かれたことがあるのに。それは確かに初めてのもの。
 この感覚は、自分のものじゃない。今ここに夏芽は――いない。

「はいオッケーです! いや、本当ナッちゃんの濡れ場、何度聴いてもやばいわ」
 売れる前からの付き合いのある馴染みの音響監督がしみじみと呟いたのが、トークバックスピーカーから聞こえた。それを合図にしたかのように、思考が、身体の感覚が、夏芽に戻ってくる。今まで演じていたキャラクターがすっと身体から抜けていく。
 さっきまで昂ぶっていた身体は嘘のように鎮まり、余韻すらない。後に残るのは、僅かに上がった息と、濡れた目元だけだ。先ほどの撮影でアイメイクをしているから、それが涙で溶けていなければいいなとふと考えた。
「なんていうかこう……うん、生々しいってのともちょっと違うんだけど、引きずり込まれるっていうか、ナッちゃんよりエロい声出せる奴ならいっぱいいるんだけど、なんか本当に出歯亀してるような気分になっちゃうというか、そういう感じ」
「あー、なんかわかります。降森さんの横にいるとすごい引っ張られるんですよ、物語の中に。俺が俺だってこと忘れそうになるっていうか。こういう場面にだけじゃなくて、いつも」
 同じく上がった息を整えながら、支倉が感嘆の声を漏らした。
「なんか、降森さんのまわりには、物語の世界ができてて、その中に入ると、自分もその中の人になれるっていうか、自分にはできない演技ができるというか、その、えーと」
「だいたい言いたいことはわかったから、お前はちょっと落ち着いてね。深呼吸しようか」
「えーっと、とにかく降森さんはすごいです!」
 そう言い切って無邪気に笑った支倉に、スタッフや他の出演者から失笑に近い、けれどどこか温かい笑いが起きた。
「支倉も十分すごいって。さっきのあのだだ漏れの色気はなんだったんだってくらいの今とのギャップが」
 その言葉に、ひどいです、と言いながら少し苦笑いをする支倉。彼の仕事柄に合わない言葉の拙さや、役者らしい勘の良さで適切に核心はついているのにどこかずれた視点は、天然ボケとして周囲からは愛されている。
 仕事で認められることは素直に嬉しかった。自分を必要としてくれる場所は、自分の価値は確かにあるのだと思えるから。芝居と声。少なくとも、ここには自分の価値がある。他の人にはできないことができる。他の誰も持っていない声がある。それだけは、負けない。
 こんな物語の相手役が支倉であったって、一度役柄を自分に降ろしてしまえば、なんら芝居に支障がないほどに。
 隣で、すぐ側で。
 絶対に叶わない片想いの相手が、欲と色に濡れた声を発している。
 絶対に叶わない片想いの相手に、淫らな喘ぎ声を、快楽に蕩けきった表情を晒している。
 けれど、一度芝居が始まってしまえば、この身体は自分のものじゃなくなる。初めての状況に混乱しているのも、与えられる感覚に身悶えて悲鳴を上げているのも、夏芽ではない。隣に立っているのも、今この身に宿っている誰かにとっては支倉ではなく、彼の愛する男だ。
 相手が誰なのか。それは掛け合いのリズムだったり声のバランスだったりには関係するし、そういう意味で特有のリズムや芝居の手の内をよく知っている支倉は非常にやりやすい相手ではある。それでも、夏芽自身の思いが、相手がどういう存在であるのかが芝居に影響を与えることはない。このもう二年も秘めて消せないほどの重い想いですら。必要なのは、どんな役者であるか、どんな声音で、息遣いで、リズムで、どんな演技をするのか、ただそれだけだ。
 自分は、役者だ。そしてその点において、自分に存在価値はあると思っている。自分の演技を、声を、喜んでくれる人がいる。ここにいていいんだ、声を出していいんだ。そう思える。
 自分からこれを取ったら、もうなにも残らない。
「ごめ、んなさい、あ、あの、えっと……っ」
 ふと、聞き覚えのない声がスピーカーから響いて、夏芽と支倉は顔を見合わせた。知らない女性の声。明らかに声を商売道具にしている人間ではない、聞き取りにくい話し方。
「あ、海月みずかさんだ、原作の」
 小さな声で支倉が呟いて、夏芽も思い出した。この作品が初のメディアミックス化だそうで、落ち着かない様子で収録が始まる前に挨拶をしていた。人見知りも緊張も酷いらしく、彼女の信頼厚い担当編集が挨拶の間中ずっと手を握って励ましてあげていてやっと喋れるような状態だった。そんなに作家に知り合いが多いわけではないが、同じ変わり者でもトウヤとは全然印象が違い、それを興味深く思ったのだったっけ。
「あ、なにかイメージ違うところありました?」
「ち、ちが、違いますっ、そうじゃなくてっ」
 監督に尋ねられた海月みずかは両手をばたばたを振って顔を伏せた。
「本当は、全部終わってから言おうって……思ってたんですけど……その、ありがとう、って、どうしても言いたくて……」
「え?」
 支倉がきょとんとした声を出した。その声に怖気づいてしまったのか、気弱そうな彼女の声はますますくぐもっていく。
「みずかちゃん、支倉さん怒ってないから! みずかちゃんが何言おうとしてるのか知りたがってるだけだから、ね?」
 またも担当の女性に励まされ、おずおずと顔を上げた。作品は賑やかなエロコメディ要素の強いものなのに、作品から受ける印象と本人の様子は随分と違う。
 顔は上げてもやはり夏芽や支倉のほうには目を合わせられず、それでも、ぽつぽつと、一言一言噛みしめるようにして、言葉を紡いだ。
「私……作家になって良かった、です。物語を作るってことの意味を、またひとつ、じ、実感させてもらいました」
 海月みずかの声は震えてはいたけれど、確かに聞こえた。