この心が声になるなら
「だから、無理しないでください。降森さんがいつも通りのほうが楽ならそれでいいですし、もし演技するの疲れたら、気を抜いてくれていいです。俺はどっちの降森さんも同じだと思うから、降森さんがやりやすいほうでいてください。そうしてもらえたら、俺はすごく嬉しいですから」
今まで誰にももらえなかった言葉が、思いが、笑顔が、空っぽの身体に染み渡っていく。
声を持たない本当の自分の心は、だけど心の声すら、形にはならなかった。
嬉しい、戸惑い、痛み、苦しさ。いろいろな感情が一気に心を満たして、自分自身の感情さえ自分で理解できなかった。
それらの奔流が落ち着いて、心に残った思いはひとつ。だけどそれは、「彼」に託してすら、声にすることのできない、してはいけない気持ち。
優しいきみ、初めてこんな僕と向き合ってくれたひと。
(ああ、僕は多分)
多分この瞬間、この心は決まってしまったのだ。
ずっとずっと空っぽだったこの自分が、暖かいもので満たされる感覚を覚えてしまったこの瞬間に。
(きみが、好きだ)
唇から音になったのは、「ありがとう」と、ただそれだけだった。
「……ナツメ、どうしたんだよ。しっかりしなよ」
怪訝な声で名前を呼ばれ、はっと現在に引き戻された。冷たいフローリングの床の温度が、ぺたりとついたままの手のひらに移っていた。
「お前、地顔が笑ってるんだと思っていたよ。あんまりその薄っぺらい笑顔が絵に描いたみたいに貼り付いているものだからね」
表情がなくなるほど、――演技ができなくなるほど、動揺していたのか。件の雑誌の支倉のグラビアページを広げたままのナナイが、こちらをじっと見ていた。ひとつ大きく息を吸う。表情筋を、動かしてみる。動いた。
「いい年してそんな泣きそうな顔するなよ、ボクより一回りも年上なんだろ?」
そう言われて、手を目元に当ててみた。濡れてはいない。それでも、酷く瞼が熱かった。
「……嘘吐け。見た目は十七だけど実際僕と同じぐらい生きてるだろ」
代行者になったとき、人間としての時間は止まる。彼が代行者になったのは、シュトル達と出会うより十年ぐらい前の話だ。
「それでもボクのほうがまだ若いさ」
そう言って、ニヤリと笑う。「お前にとってのシュウゴみたいな相手もまだいないしね」
そうだ。知られてしまったのだった。世界が暗くなっていくような心持を覚えた。誰にも、知られてはいけなかったのに。
「それを知って……どうするつもり?」
「別に? ライバルに該当する人間がどれぐらいいるのか知りたかっただけだよ。本人に言ったりするつもりはないから安心してよ。ボクも敵に塩を送るような真似はしたくないしね」
「敵に塩、って」
「だって、どこからどうみてもシュウゴはお前に懐いてるだろ、まるで犬みたいにさ。お前がシュウゴのことどう思ってるか知ったら、しっぽ振って大喜びしちゃうと思うけど?」
「……確かに、慕ってくれているとは思うよ。でも意味が違う。そういう風に好きになってもらうには、僕は彼にみっともないところを知られ過ぎているよ。僕が年上だってのにどれだけ情けない奴かも知ってるし、僕なんか全然美人でもイケメンでもないし……大体、男同士だ」
「でもお前は男が好きなんだろ」
「たまたまだよ。どう考えても少数派だ。あと、正確に言えば男が好きというよりも、好きになるのに性別が関係ない」
本当に関係なかった。男とも女とも、同じようなきっかけで付き合い始めて、まったく同じ理由で別れ続けてきた。そんな自分のあり方に嫌気なんかとうに差していて、最後に恋人がいたのは多分大学三年ぐらいの頃のことだろう。以降も、誰かに惹かれたことはあった。たくさんの女の子と、何人かの男から告白されたりラブレターを受け取ったり、わかりやすくアピールされたこともあるが、全部断り、或いは気付かない振りをしてきた。同じことを繰り返すのは耐えられそうになかった。
だからきっと、支倉が女だったとしても、或いは自分が女だったとしても、きっとこの心を言葉にすることはできない。同性なので、ハードルは上がっているけれども。
そんな夏芽の姿をちらりと見遣り、ナナイは言った。
「知りたくないか?」
「……何を?」
「鈍臭い奴だね。今の会話の流れ考えたら予想できるだろ? シュウゴが男でもいけるかどうか、知りたくない? ……やっぱり、知りたいんだね」
この心は手に取るように知られてしまう。逃れられない。ナナイは口元を吊り上げて笑う。
「男が恋愛対象になるかどうかは、お前だけじゃなくてボクにも重要な情報だからね。なにせ選んでもらうまでに五日間しかないんだ、短期決戦で行くよ」
これ以上、踏み込んでくるな。
言おうかどうしようか迷って、口が動かない。なんだこれ、本当の自分と大差ないではないか。でも、どうするのが正解なんだろう。
知りたいのは事実だ。正確に言ってしまえば、はっきり事実を突きつけられて、諦めてしまいたい。どんなに仲が良くても、所詮仲の良い先輩後輩以上にはなれないのだと。
「知りたいってお前が一言言えば、教えてあげるけど?」
でもどうせ、諦めているのだ。たとえ同性が恋愛対象だったとして、こんなにもなにもない自分が、選ばれるはずがない。それよりも美形で、行動力があって、若くて、なんともいえず魅力的な、ナナイみたいな子のほうがいいんじゃないだろうか。
「……今の会話の流れで、そんな泣きそうな顔される理由がわからないよ」
「放っておいてよ。明日朝一番でグラビア撮影があるんだから、あまり疲れさせないでくれ」
「お前、本当に根っからの仕事中毒なんだね。そんなので人生楽しい?」
「それこそ放っておいてくれ。僕の価値なんて、そこにしかないんだよ。僕から声と芝居を取ったら何が残るんだ」
「……お前、本当に生きてて何が楽しいの?」
つまらない奴。そう呟くナナイの声に、その通りだと自分でも思う。何もない。
けれど、空っぽの自分でも、芝居と声だけは価値がある。それだけに縋って、生きていくことだけはできるぐらいには。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい