この心が声になるなら
目を合わせることができなかった。支倉の顔を見れなかった。話せてる、ということは、演技ができているはずなのに。
誰にも気付かせなかった。話したこともなかった。親にも、恋人にさえ。でも、見られてしまった。今までずっとしっかり者で面倒見のいい先輩を演じてきた可愛い後輩に。
がっかりはされるかもしれない。信頼は失うだろう。だけど、誰かに言いふらしたりはしないはずだ。夏芽は、覚悟を決めて、一つ一つ言葉を選ぶようにして口にした。なんとかうっすらと穏やかな表情を浮かべて。
「……子どもの時からずっと、人と話そうとしても、声が出ないんだよ。喉には問題ないから、歌ったり、返事したり、本を読んだりはできるんだけど、普通に話そうとすると、ダメなんだ」
支倉は驚きをその顔に浮かべて、夏芽を見ていた。がっかりさせたかな。そう思っても、もう今更だ。
「なんで、ですか」
しばらく口元が迷うように動いて、やっと口にしたらしいその言葉。
「きみの言う通り、話すのが怖かったからだと思うんだけど、はっきりしたことはわからない。親にも気付かれなかったから病院とかも行ってないし」
「気付かれなかったって」
「声自体は出てたから、ただ無口な子だと思ってたんだと思うよ。出席で名前を呼ばれたら返事はできたし、挨拶とか朗読とかも普通にしていたしね。高校ぐらいまでずっとそうだったけど、誰も何も気にしていなかったよ」
親も含めた誰も、夏芽に大して関心がなかったのだろう。身体はそこそこ丈夫で病院や保健室の世話になることもほとんどなく、勉強も問題なくついていけていたこともあって、本当に誰の目にも留まらなかった。
望んだ通り、夏芽の存在が、言動が、表情が、誰かの心を揺らがすことはなかった。
「……それじゃあ、どうやってしゃべれるようになったんですか?」
今は、揺らいでいる。だけど揺らがせているのは自分じゃない、『ナツメ』だと、そう思い込んでいるから、誰かのせいにできるから、話せているんだ。だってそうだろう。こんな話をしながら穏やかに笑う男が、自分自身のはずがない。
「中学のときの先生がね、小学校の学芸会で僕を見たことがあって、演劇部に来ないかって誘ってくれたんだ。そこから高校までずっと演劇やってたんだけど、演技でなら、台本があれば、いくらでもすらすらしゃべれたし表情も自然に出てきたんだ。だから、ずっと役柄を演じていれば、普通に人としゃべれるんじゃないかって思って、大学に入ったときに、試してみた」
支倉は、口を挟まなかった。相槌も反応も待たずに、すらすらと言葉が続く。
「他人と比べておしゃべりじゃなくていい。穏やかで、気遣いができて、しっかり者で、普通に人としゃべれて……こうなれたらいいのにって願った『僕』を、僕は演じることにしたんだ。しゃべってるのは僕じゃない。そういう男だって思ってみた。そうしたら、普通に声が出たよ」
もう、十年近くも前の話だ。あの日からずっと、家でひとりでいるとき以外、夏芽はずっとその役を演じ続けている。
「だから、きみと話している僕は、そういう『役』なんだよ。本当の僕の代わりに、人と話して、関わって、社会で生きるための役柄。昨日のことは、僕も知らなかったんだけど、あんまり酔うと演技が出来なくなるみたいだ。喉はぜんぜんなんともないのに、声が出なくなって。あれが本当の、素の僕だよ」
まるで、台本に書かれた台詞みたいに、自分についての説明が口から滑り落ちた。やっぱり、しゃべっているのは自分ではないのだろう。
「あの、えっと」
「がっかりした?」
今、どんな顔をしているんだろう。怖い、見たくない。けれどその彼の顔を見ることができる。だって「彼」は、「僕」じゃないから。この顔は支倉に向けられている、はずだ。なのに、どうしてだろう。
(今きみが、どんな顔してるのか、わからない)
感覚が遠い。この体が、自分のものではないみたいに。
「ごめんね。きみの知ってる『降森ナツメ』は、僕の作り出したキャラクターだ。どこにも、いないんだよ。いるのはきみが昨日見た、情けない奴だけだ」
そう言いながらも、本当はどちらなのか、夏芽自身にも正直わからない。夏芽にとって、あの男を死ぬまで演じ続けるのは、きっと無理なことではない。高校までは友達のひとりもいなかったような本当の自分のことよりも、今、夏芽が演じている姿を知っている人のほうがずっと多い。もしかしたら、この社会に存在しないのは、本当の自分のほうなのかもしれない。
そのほうが、いいのだろう。そう思う。だけどそれは自分が望んだことなのに酷く苦しい。
「……ね、降森さん、顔見せてくれますか?」
「え?」
呼ばれてはっとした。いつの間にここにいたのだろう。さっきまでソファの上にいたはずの支倉が、すぐ目の前にいて、上から覗き込んでいた。こんなに大きな体が近づいてきたことに、足音にすら気付かなかったことに自分で驚いた。とうとう五感さえ、自分のものじゃなくなりかけているのだろうか。
「降森さんの顔、昨日の夜も、今日も、それ以外のときも、ちゃんと同じ人の顔をしてますよ」
大きくて黒い瞳が、柔らかく笑った。
「だから大丈夫です。全部降森さんです」
その温かな笑顔が、昔飼っていた愛犬とダブって、ぎゅっと抱きついてしまいそうになってなんとか堪えた。何を考えているんだ。相手は人間で、後輩だというのに。
「……でも、きみが僕を慕ってくれるのは、あの僕だからでしょう?」
あの「彼」を演じるようになるまで、友達のひとりもいなかったのだ。だから、本当の自分には、何の価値もない。
けれど、支倉は笑って、未だかつて誰も夏芽にくれたことのない言葉を、なんでもないことのように口にした。
「でも、いつもの降森さんは、降森さんがそうなりたいって思う降森さんなんですよね? だったら、俺は降森さんのこと大好きですよ。俺が今まで知ってた完璧超人みたいな降森さんのことも、あなたの言う『本当の降森さん』も、降森さんなら全部同じで、大好きです」
当たり前のように、ごく自然に、支倉はそう言った。
「支倉君」
ああ、自分は今どれだけ情けない顔をしているのだろう。支倉の、太陽のような優しい笑顔に見つめられて。そんな言葉をもらっていい人間じゃない。そんな価値のある人じゃない。こんなに、嬉しい気持ちにしてもらえる価値なんて、自分にはない。そう思うのに。
「あの時、俺が困ってるのに気付いてくれて、助けようって思ってくれたのは本当なんでしょう? それが嘘だって言われたらそりゃ悲しいですけど、助けたいって思ってくれたことさえ本当なら、かけてくれた言葉がかけようって思ってくれた言葉なら、声をかけるのに、あなたが言うみたいに演技をしてたとしても、全部おんなじ、俺の大好きな降森さんですよ」
泣くことさえできないはずのこの心が涙を零しそうになるのを、なんとか堪えた。どうして、こんなに優しいんだ。どうしてこんなに受け入れてくれるんだ。親でさえ受け止めてくれなかった、こんな自分を。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい