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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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この心が声になるなら

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 この姿を人に見られるのは、上京してからは初めてだった。それ以前には友達なんてできたことがなかったから、この状態で人を家に上げることは本当に生まれて初めてだ。どうしていいかわからなくてなんとなく居間を所在なさげにふらふらしていると、上体を起こしてソファの半分を空けた支倉に、こっちに来てください、と手招きされた。
 別に支倉が遊びに、というか夏芽の料理目当てでやってきて、そのまま泊まって行ったことなんて何度もある。だけど、その時は、……違う、誰かと会うときは常にこの身体は「彼」であって、自分ではない。彼の思いは自分の思いではあっても、あんな風にしゃべったり笑ったりすることは、自分にはできない。支倉も何も言うでもなく、落ち着かない沈黙が流れた。
 それから、二十秒ぐらいしただろうか。視界の隅っこで支倉の表情が緩んだのに気付いた。
「……良かった、息の音、いつもと同じです」
 ほっとしたように吐いた息に、自分を近くに置いたのも、ずっと黙っていたのも、呼吸音を聞き分けるためだったことに気がついた。
「俺は、バイトは朝からです。降森さんの仕事は……朝からですか?」
 いつからですか、と聞こうとしてそれでは夏芽が答えられないことに気付いたのだろう。こくりと頷いた。先ほどの応対といい、ここまで気遣いのできる男だったなんて、知らなかった。デビューして間もない頃から知っているだけに、いつまでも面倒を見なければいけない弟のような気持ちでいたのに、こんなにも面倒と心配をかけてしまった自分が情けなかった。
「じゃ、そろそろ休んだほうがいいですね」
 そっと立ち上がると、支倉は自分のほうへと手を伸ばした。別に手を借りなくても立てる。けれど、手を取らないのも好意を無碍にするようで悪い。迷っていると、手を取られて、立ち上がらされた。手を引かれるまま寝室へと連れて行かれる。寝室にあるのは一昨年湯上に押し付けられたシンプルなダブルベッドと、眼鏡や読みかけの本、台本などを置いておくための引き出しのついた小さな机が一台。色はすべて白。ベッドの下にしまわれた携帯の充電ケーブルだけが黒。無機質で、シンプルで、必要なものだけが無愛想に整然と並べられた部屋。
 まるで、自分の姿みたいだ。生存するのに最低限の機能だけが存在する、空っぽのこの身体。
 ベッドに身体を横たえながら、そんなことを考えたのは、きっとこの部屋に久しぶりに最低限以外のものが存在したから。支倉が、いるからだ。
「もう吐きそうなの、治まりました? 寝れそう?」
 そっと柔らかな声が、上から降ってくる。頷いて、布団の温かさだけじゃなく妙に心地よくて、酔いと疲れもあいまって、自然と瞼が重くなってくる。
 ほっとしたような息が聞こえた気がした。感覚と思考も遠くなっていく。けれど、少なくとも眠りに落ちるその瞬間まで、支倉の気配はすぐそばに感じられた。繋がれた、骨ばった熱い手のひらから。
 
 翌朝目を覚ましたとき、頭と体の感覚がちゃんと戻っていることにほっとした。吐き気もだるさもない。あるのは、いつも通りの、寝ても寝ても取れない慢性的な疲労感だけだ。昨日のことなんか、悪い夢かなにかだったみたいに。いっそ夢であってくれたらいいのに。
 それでも、リビングのソファの上で上体を起こした彼の姿に、昨夜のことが現実であったことを思い知らされた。
「おはようございます!」
 夏芽の足音に気付いて待っていたのだろう。ドアを開けるなり、支倉の大型犬のような大きな黒い瞳と目が合った。
「あの、具合は大丈夫ですか?」
「おはよう、昨日はごめんね、迷惑かけちゃって」
 いつも通り、話せる。ちゃんと演技ができている。そのことにほっとした。
「よかった、ちゃんと、声……」
「うん。心配かけてごめん。喉も問題ないし、仕事もちゃんとできるよ。朝ご飯作るから少し待ってて、時間そんなにないから凝ったものは無理だけど」
 元々、繊細な声質の割に喉そのものは丈夫なほうだ。多少酷使しても後を引くことはあまりないし、勿論今は仕事柄普通の人より気を遣っているとはいえ、子どもの頃から喉が原因で声が出なくなったことは数えるほどしかない。
 人がいるのに起きたままの格好で朝食の準備というのもあまりにだらしないと、顔を洗い寝癖を直し、せめて部屋着に着替えてこようと居間を後にしようとすると、
「……あの、降森さん」
 昨日のノックのように、少し控えめに声をかけてきた。
「昨日みたいなこと、よくあるんですか?」
「酔ったら、声が出なくなっちゃうってこと? ……正直、あんなに酔って具合悪くなったこと自体ほとんどないから、よくあることではないけど」
「それだけじゃ、ないです。昨日の降森さん、すごく……なんだろう、上手く言えないんだけど……うん、なんというか、なにかを怖がってた、みたいな感じがしたんです」
 支倉の言語感覚は人と少しずれており、その自覚は本人にもあるらしい。独特の世界の中から、なんとか夏芽に伝わるようにと一生懸命言葉を探している。だから、聞き流せない。
「怖がってた?」
「はい。なんか、そんな感じしたんです。しゃべるのとか、笑ったりするの、怖がってるみたい。酔っ払ったあなたには、そんなに怖いものが見えてるのかな、って思ったんです。だけど、俺には降森さんが見てるものは、見えないから」
 怖いもの。彼の口にするそれが、幽霊とかの類ではないということぐらいはわかる。そしてその発言が酷く的を得ていることも。なにせ、自分の言葉や表情で母が悲しんだりするのを怖がっているうちに、こんなになってしまったのだから。
 ただ、ひとつ違うことがある。酒に酔っても酔わなくても、いつだって、夏芽の目に映る世界は変わらない。自分以外の誰の心も、過去に何があったのかも今どうなっているのかも未来に何が起こるのかも、何一つわからない、なにもかも酷く不確かで恐ろしい世界。
「そんなことないよ」と言えばいいんだろうか。或いは「そうだね。なんかお酒入ると妙に不安になるというか」が正解だろうか。実際、普段明るいのに酒が入ると急に世を果敢なみ始める知り合いもいるし、不自然ではないだろう。いつものように穏やかに笑ってそう言えば、彼は信じる。勘の鋭い彼は違和感を覚えるかもしれないが、きっと信じようとしてくれるだろう。
 けれど。
 喉から決して零れることのない自分自身の心の声は、それは嫌だと訴える。支倉にだけは、嘘をつきたくないと。
 いつか、「降森さんのことは、信じても大丈夫って思ったんです」と屈託のない笑顔で言ってくれた、この子にだけは。
 体が震えた。怖い。悲しませたり、怒らせたり、嫌われたり、――自分の言葉で、気持ちで、誰かの心が揺らぐのが怖い。揺らがせてしまえる自分が、怖い。
「……どうしたんですか。俺、なんか降森さんの嫌なこと、言っちゃいましたか?」
「違う、よ。きみは悪くない」
 支倉の知っている「ナツメ」らしくない。こんな震えた声。だけど、声は出る。まだ話せる。
「本当の僕は、こんなだよ」
「こんな、って」
「昨日の夜みたいな奴だってこと。話せないし、笑えないし、泣くのも多分無理」
「……どういうこと、ですか?」