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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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この心が声になるなら

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 結果として言えば、夏芽をダシに支倉が飲み会から逃げ出すことには成功した。だがその過程は、当初の計画とは大幅にずれたものだった。当時既に過労気味だった夏芽の体には、本人が自覚している以上にガタが来ていた。普段だったら四、五杯は行けるはずのハイボールをジョッキ半分も空けたあたりで、何かが変だという感覚はあった。いつもと、酒の回る速度も、質も違っていた。それでもまだ具合が悪いというほどではなかったし、これだけしか飲んでいないのに調子が悪いから帰るといえば、流石に芝居だと見抜かれてしまうかもしれない。とりあえず二杯は飲まなくては。ジョッキの残り半分を一気に飲み干し、お代わりを注文した。
 二杯目が来る頃には、異常はもう明らかだった。体がだるい。頭に靄がかかったようだ。なにかがおかしい。
 具合が悪い振りをするのに本当に倒れてしまっては洒落にならないし、タイミングを計って支倉を助けることもかなわなくなる。少々不自然ではあるが本当に具合も良くないのだ。計画を前倒ししようと決めて、「すみません、なんか具合悪くて」と言おうとして。
 唇が、ただ、空を切った。幼い頃から何度も味わったあの感覚と共に、声が出なかった。
(嘘、だろ)
 信じられなくてもう一度、唇を開いた。同じことだった。両手で喉に触れた。いつもは振動し、心地よい声を発するはずのそこは、少しも動いていなかった。
 自分の代わりにこの身体で話していた誰かの気配が、つかめなかった。いっそ「彼」じゃなくてもいい、今までに自分の演じた誰かの言葉を借りようとした。けれど、誰一人の声も出ない。この空っぽの身体がひとつあるだけ。
 演技が、できない。誰にもなれない。
 全身から血の気が引いた。必死で動かす口が、餌を求める鯉のように、ただただ意味なく開閉する。
「…………降森さん?」
 支倉の声がする。どうしよう。なんて言えばいい。元々の作戦通り具合が悪い、と言えばいいのか、大丈夫、心配しないでと言えばいいのか、とにかく、声が出ないのだと伝えなくてはいけないのか。
 頭の回転軸がずれたようだった。答えがわからない。心臓がばくばくと変なリズムを刻んだ。どうすればいい。わからない、わからない。息が、苦しい――
「降森さん、どうしたんですか、……降森さん!」
 パニックになって暗くなりかけた視界に、支倉のいつも以上に白い顔が映った。その表情は本気で心配そうで、酔った振りではなく、本当に何かが夏芽に起こったことに気付いていた。
「え、なっちお前どうしたんだ?」
 島崎も流石に妙な雰囲気に気付いたのだろう。酒を飲む手を止めて、怪訝な顔で夏芽を見た。
「ね、降森さんどうしたの、心臓のリズム、変です。息苦しいの? ねえ、大丈夫……!?」
 泣きそうな、縋るような支倉の目。そんな顔しないで、そう言いたいのにやはりこの喉から声はでない。
「おい、救急車呼んでもらうか?」
 先輩の声に、なんとか首を横に振ることはできた。そこまで身体的には大事ではないのはわかっていた。いつもと違うのはただひとつ、どうしても演技ができないだけ。
「大丈夫? ねえ降森さん、息、ちゃんとできてる? 死んじゃったりしませんよね!?」
 時々敬語すら忘れて必死に問いかける支倉に、何度も何度も頷いた。頼むから、そんな泣きそうな顔しないでよ。そう言って安心させてあげたいのに。こんなことになるのなら、一日潰れさせてしまうが先輩に連れ去られるのを黙って見過ごすか、それか先約があったことにして強引に連れ出せばよかったと後悔してももうどうしようもない。
(声が、出ないんだよ。元々僕は)
 この喉と体を借りて、不自由な自分の代わりに社会で生きていた「彼」が、姿を見せてくれないだけ。状況はわかっている。きっと、酒によって調子が悪いせいなのだろうということも。だけど、どうしたらいいのかがわからない。どういう表情をすればいいのかも。
 体は大丈夫だ。少し足がふらつくのと、吐き気がするのと、全身がだるいのと、パニックで動悸が酷いだけ。掘り炬燵から足を引き出して、柱に手をかけて立ち上がる。なんとか歩けそうだった。大丈夫ですか、肩貸しますよという支倉に首を振り、なんとか手洗いへと向かった。
 個室に入ってひとりになれた瞬間、呼吸が落ち着いた。それでも、まだ声は戻ってこない。
 異常とかじゃない。痛みもない。いつもと同じ。喉にはまったく問題がないのに、話すことのできない、二十年以上付き合った本当の自分がここにいるだけだった。言葉を、口にすることのできない人間。自分の心を、表に出せない、出来損ないの人間。
「うぇっ…………」
 喉の機能自体は問題ないから、込み上げてくる吐き気に、生理的な呻き声は漏れる。悲しみで泣くことはできなくても、苦しさに涙は零れる。まるで生きた人形のよう。
 飲み始めたばかりでろくになにも口にしていなかったから、ほとんど水分と胃液ばかりを吐き出していると、とんとん、と控えめに扉が叩かれた。申し訳ないけれどあと少し待ってほしい。そう思って顔は便器に向けたまま、後ろの扉に手を伸ばそうとすると、大丈夫ですか、と耳慣れた柔らかな声がした。
「お水、飲みますか」
 ちょっと待って、と言いたくても声が出ない。ドアを開けて受け取ればいいのだけれど、まだ吐ききっていないし、吐くなんてみっともないところを見せたくはない。助けるはずだった後輩に面倒を見てもらうなんて、絶対に嫌だった。
「降森さん、ひょっとして倒れてたりしませんよね……?」
 声が震えていた。返事がないのを、できないほどにぐったりしているからだと解釈したのだろう。返事ができる状態じゃないのはその通りだが、これ以上心配はかけたくない。まだ吐き気は治まっていなかったがとりあえず急いで口元をトイレットペーパーで拭って水を流し、ドアを開けた。僅かにほっとした表情の支倉から安っぽいガラスのコップを受け取り、一口含んで濯いで吐き出した後、残りを一気に飲み干した。
「大丈夫ですか?」
 心配そうな声に、頷く。
「ごめんなさい、俺のせいですよね。島崎さんから俺を助けようとして、ついてきてくれたんですよね。具合、悪かったのに」
 最後の一言が妙に引っかかって、夏芽は顔を上げた。二十五センチ上から、元々白い肌を更に青褪めさせて、支倉が見下ろしている。
「会った時、降森さん、いつもより息が少し速かったんです。具合良くないのかなって思ったんですけど、疲れてるだけかもしれないし、今日これでラストだって言ってたから大丈夫かなって思って何も言わなかったんですけど。なのに、こんなことにしちゃって、ごめんなさい」
「…………!」
 自分自身自覚できていなかった体調不良を言い当てられ、夏芽は驚いた。支倉が人とは異質な音に対する感覚を持っていることは本人から聞いていたし、日頃の独特な言動などからそれは事実なのだと知っている。だけど、こんなに人のことをよく見ている、というか聞いている子だとは気付かなかった。心配をかけてしまったことの心苦しさが募るが、それでも、まだいつもの感覚は戻ってこない。自分の代わりにしゃべってくれる「彼」はいない。
「……降森さん?」