この心が声になるなら
好きだと、愛してると言われるたびに苦しくなった。楽しい、優しいと言われるたびに、申し訳なくなった。きみが好きな人は、僕の作ったキャラクターなのだと、ここには存在しないのだと、叫びたくなった。だけど、そう思う自分自身の声は、とうに失われているのだ。
結局、彼女とは別れた。どうして、とは言われたけれど、説明することはできなかった。
似たような関係を、何度か繰り返した。その中で同性の先輩からも告白されて付き合い、自分がバイセクシャルなのだと気づいたけれど、それもそれだけで、結局他の女性たちと付き合ったときとまったく同じ結末を辿った。
確かに好きだった。だけど、相手が好きなのは、ナツメであって、夏芽じゃない。自分で望んで完璧な「ナツメ」を演じているはずなのに、そのおかげで手に入ったものをそ知らぬ顔で受け取れるような心を、夏芽は持てないでいた。いっそ中身になんて興味がない、顔や声が、或いは演技の才能が好きなのだと、そう言ってもらえれば割り切れたのに。
それは確かに、自分の考えを代弁はしてくれる。だけど、それが自分だとは思えなかった。いつまで経っても夏芽自身は少しも変われないまま、それは自分の一部にもなってくれず、代わりに世界の中の夏芽の存在を侵食していく、夏芽じゃない誰か。夏芽の身体と時間を使ってこの世に生きる、違う誰か。
自分は、なんてものを作り出したのだろう。気がついたときにはもう、周りには「ナツメ」を知る人しかいなくなっていた。自分がそうしたはずなのに、それはひどく恐ろしいことに思えた。自分の場所が、どんどんなくなっていくような感覚。
だけどそもそも、本当の夏芽自身を知る人なんていないんじゃないか。だってこの喉は、夏芽自身の胸のうちを伝える声なんて、出せやしなかったのだから。
それに気づいてしまったとき、本当の夏芽の心は深い淵へと落ちた。そしてその暗い底から、光の当たる場所で穏やかに笑う、自分の顔をした男をずっと見つめ続けてきた。目を逸らすことさえ、許されないまま。
そんな日々の中、サークルのOBだったある音響監督の目に留まり、大学三年の時に、声優としてデビューが決まった。発声や技術的な部分は勿論未熟であったが、役柄に入り込む力は当初から高く評価され、「キャラクターが乗り移っているよう」だと言われた。
それは、自分が空っぽだからなのだと、夏芽は思った。本当の自分なんてもう僅かしか残っていなくて、抜け殻のようなこの身体は、別人が入り込まないと声すら出すことができない。夏芽は、その身体を明け渡しているだけ。この世界に存在できない、物語の中の誰かに。
湯上との雑談の中で、彼が夏芽の芝居の才を褒める時に、どこぞの少女マンガの天才女優に例えたことがあった。ただそのときに本気で間違えたのかふざけたのか、「千の仮面を持つ少女」ならぬ「千の顕現を持つ男」と称した。「僕はすべてを冷笑なんてしませんよ」と返すとニヤリと笑ったのでわざとなのかもしれない。
千の顕現を持つ無貌の神。貌がないから、何にでもなれる。それは妙に自分にしっくりきてしまって、心のどこかが酷く冷えていくのを感じた。
仕事は順調にステップアップしていった。技術も着実に進歩していき、若手実力ナンバーワンと呼ばれるのに時間はかからなかった。何時の間にか年下の同業者も増えてきた。大学時代にも幾多の後輩たちを餌付けした料理の腕は更に上がり、気づけば自宅は男性若手声優たちによって居酒屋だの割烹だのレストランだのと呼ばれるようになった。自分の作った料理を食べて人が喜ぶのを見るのは好きだったから、夏芽も好んで後輩たちを家に連れてきた。
支倉修吾も、そんな降森家常連組のひとりだった。彼がテレビアニメデビューした頃がちょうど夏芽の仕事が増え始めた時期と重なっており、数多くの現場で顔を合わせた。支倉が懐いてくれたこともあり、事務所は違うながらもなんとなく面倒を見たり、アドバイスをすることも多かった。出会った頃は警戒心が強かったものの本来末っ子気質で甘え上手の支倉は、ひとりっ子の夏芽にとっては弟のように思えて可愛かったこともあり、しばしば家でご飯を食べさせ、飲み会などにも一緒に行くことが多かった。
それでも、支倉はかわいい弟分、或いは真面目で才能もある期待の後輩、そんな存在のひとりでしかなかった。彼にとっても夏芽は、「面倒見が良くて料理上手でしっかり者の先輩」でしかなかったはずだ。夏芽が、そう演じ続けた通りの。
初対面から三年後、そして今から二年前。確か、セブンゴッズの二期の収録の後だった。
夏芽と、名もなき脇役で出演していた支倉は共演していた島崎という先輩に誘われて飲みに行った。というよりも、島崎のしつこい誘いを断りきれずに困り果てた支倉の顔を見かねて、ついていってあげることにしたのだ。彼は別に支倉とサシで語りたかったことがあったわけでもなく、ただ酒に付き合ってくれる相手を探していただけだったので、夏芽がついていくことにも何の不満もなかった。島崎はとにかく酒癖が悪く、酔って後輩たちに絡むことで有名だった。また、酒を断るとひどく機嫌が悪くなるので、どんなに弱かろうと具合が悪くなるまで解放してもらえない。そして自分も出来上がってしまっているので、面倒も見ない。その間のことを本人はほとんど覚えていないから反省もしないし、その上当時の支倉のような吹けば飛ぶような立場の若手が無碍に断るには大物過ぎるという、一番厄介なタイプの先輩だった。一度被害に遭った、或いは噂を聞いた人々は誘われないようにいつもうまく避けていたのだが、そのあたりのところがどうにも鈍臭い支倉は収録後に逃げ損ねてしまったのだった。
支倉は酒自体はわりと好きなほうだ。飲んでる間は顔色や言動や行動も普段と変わらないので一見酒に強く見えるが、飲みすぎると次の日の二日酔いが酷いタイプだそうだ。下手に具合が悪くならないだけに、帰るきっかけが掴みにくい。夏芽も強くはないが、特別弱くもない。
(明日は、朝からバイトだって言ってたっけ)
ショッピングモールで朝から夕方まで着ぐるみに入るのだと言っていた。万一その中でグロッキー状態になってしまっては目も当てられない。支倉が飲まされ過ぎる前に二杯も飲んで具合が悪くなった振りをして、家まで送ってもらうという名目で支倉を救出してやるつもりだった。支倉もいざとなったら夏芽が機転を利かせて自分を逃がしてくれると期待したのだろう。夏芽が「僕も久々に飲みたいんですけど、いいですか」と言った瞬間、売られていく子牛のようだった表情に一気に生気が戻ったから。
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい