この心が声になるなら
冬虫夏草、と呟いた瞬間明らかににやりと笑った湯上に、夏芽はため息をつきつつも感謝した。体を気遣ってくれたのは本当だろう、なにせ駅で倒れた夏芽を助けて病院に運んでくれたのは、彼だ。しかし礼を言う前に「そんじゃーね!」と最後まで年齢不相応にハイなテンションなまま、湯上は廊下の向こうへと歩き去っていった。ほっと息をつきかけたその途端、彼はひょいと曲がり角から顔を出し、「そういえばきりたんぽってなんかえろいよね」と言った。
「今すぐ全秋田県民に謝れ」
あまりのくだらなさに思わず敬語を忘れた支倉に、あははははごめんごめん、代表してくらしーに謝罪するわと言い残し、今度こそ湯上は去っていく。
「あ、そういえば、ユノさんにシュトルがいるかどうか聞くの忘れましたね」
そう支倉が呟いたので、夏芽は首を振った。
「それは多分ないと思う。笹森の姉さんのツイッターが今日もいつも通りだったからね。何かあったら、それについて書くかなにも書かないかのどっちかでしょう、多分」
二人にとって業界の先輩に当たる湯上の妻の名前を出すと、納得したように支倉が頷いた。笹森真帆は女性声優の中でも一、二を争うツイッター廃人だ。そのことについてはツイッターをやらない支倉は噂には聞いていてもピンとは来ていないだろうが、夏芽の言葉の後半部分はわかったようだった。
「あと、みなみちゃんのところにもリーネはいない。ナナイに確認したから間違いないよ」
「そっかー、みなみちゃんとリーネのツーショットって綺麗どころ揃うから癒されるなーと思ったんですけどねー」
「まぁ、僕とナナイよりはそうだよね。いくらあいつが凄い美形だって言っても、男の二人暮らし一週間とか、やっぱりむさくるしいか。僕はこんなだし」
ほんの僅かに浮いた嫉妬を押し隠して、夏芽は雰囲気を流すように軽い口調で言った。支倉が、子役時代からのみなみの大ファンであることは知っている。かなり気合の入った声フェチで、見事なまでのダメ絶対音感の持ち主であることも。だからきっと、可愛い同業者の女の子でも捕まえて、幸せになるんだろうな。それこそ、みなみのような。
「あ、それで思い出したんですけど」
そんな夏芽の思いに気付くこともないのだろう、ふと支倉はぽんと手を叩く。
「ナナイがここにいる間、どうするつもりですか?」
「うちに置いておくよ。叩き出せるわけないし、外に宿をとるにしてもあまりにも彼は目立つ」
それ以外の選択肢を検討すらしなかった。どうして? と問えば、少し視線を彷徨わせた後、支倉は続けた。
「よかったら、うちで預かりますよ」
「え」
「……だってナナイがいたら、降森さん自分ちでも……疲れちゃうでしょ? 忙しいし、体の具合も、まだあんまり良くないのに。また降森さんが倒れたりなんかしたら、嫌ですよ、俺」
「…………」
入院している間、支倉は毎日のように見舞いに来てくれた。翌日の朝一の現場で夏芽の事務所の後輩から夏芽が倒れたと聞き、収録が終わった後直ぐに駆けつけてくれた。まだそんな贅沢をできるほど稼げていないのに、タクシーに乗ってまで。収録とバイトの合間にほんの十五分程度、夏芽に会うためだけに。心配を掛けてしまったのだとその顔を見て思い知らされた。自他共に認めるワーカホリックのはずの自分が事務所から仕事をセーブするように言われたときに大人しくそれを受け入れたのは、目覚めたときに付き添っていてくれた湯上夫妻と、あの時の支倉の顔が、頭から離れないからだった。
それは、わかっている。けれど、自分と同じ声の人間が、……違う、自分以外の誰かが、支倉の家に泊まるのが。
「大丈夫だよ。寝る場所はソファがあるし、ご飯一人分多く作るのは手間じゃないしね」
想像するだけで不快な苦味が、胸の奥に広がっていくみたいだ。そして、そんなことを考える自分にも、それ以上に嫌悪感を覚えた。
「でも……」
「大丈夫だよ。どうせ五日間だって話だし、前よりは少しましになったし。どうしてもダメだったらお願いするから、ね」
また、嘘をついてしまった。体調は確かにましになった。だけど、支倉が心配しているのがそこじゃないことは、わかってる。彼の言う通りだということも。心配してくれたことは嬉しかったし、けれど気を遣わせてしまったことが申し訳なくなる。
(支倉君にだけは、嘘つきたくないのにな)
支倉の表情が寂しげに見えたのが、胸を締め付けた。それでも、これらの思いに嫉妬が勝った。そのことがとても悲しかった。
(自分のキャラに嫉妬するなんて、どうかしてる……)
「わかりました。でも、あんまり無理しないでくださいね。もし寝られなくなっちゃったりしたら、すぐうちで預かりますから。結構気が合いますし、俺のほうは心配しないでください」
「うん、ありがとう」
できる限りいつも通りの穏やかな笑みを浮かべて答える。心の中がぎしぎしと音を立てて軋むのを、聞かない振りをして。
すべての仕事を終えて帰宅したのは一般家庭の夕飯にはほんの少しだけ遅い頃だった。
「ただいま。ナナイ、まだ起きてる?」
「起きてるよ、おかえり、ナツメ」
もし寝ていたら悪いと思い、玄関先で小さく呼びかけると、その声が届くはずのない奥のほうの扉から返事があった。自分の問いかけの答えが、ナナイに降ってきたのだろう。自分が起きていることを知識として知らされるというのはどういう感覚なのだろう。
ナナイの声は、一番奥の部屋から聞こえた。夏芽が普段ほぼ書庫や物置代わりに使っている部屋だ。これまでの出演作の台本やDVD、CD、掲載された雑誌や、あとは読み終わった本などがぎっしりと詰め込まれている。台本の入った重い肩掛け鞄を寝室の入り口に置くと、ナナイのために買った服一式と、プリペイド式の携帯電話が入った紙袋だけを持ったまま、この時間に帰れたらいつもであれば野球中継でも観る為にテレビに向かうところを、真っ直ぐ奥の部屋へと歩みを進めた。
「最初に言ったのより遅くなって悪かったね。夕飯は何か食べた?」
ドアを開けながら問いかけて、
「……きみ、何見てんの?」
それはあまりにも瞬間的で、取り繕えたかどうかわからなかった。
「何って……えーっと、セーユーザッシ? の、グラビア? 夕飯はお前の置いてってくれたミソシルとゴハンとニモノを温めて食べたよ。美味しかった」
ああ、そういえばあの世界に写真とかカラー印刷の技術はまだなかったな、とか、そんな状況とずれたことを考えて。
「読めるの?」
「ああ、字は読めないけど、『なんて読むんだ?』って問えば書いてあることはわかるよ。それにしてもすごいね、このシャシンってやつ」
「撮ってあげようか? うちのカメラなんて安物だし僕は素人だから、こんなに上手くは撮れないけど」
初めて見る写真に興味を示しているだけなら、別に何も問題はない。カメラは自分の部屋にあったはずだ。ほっと一息ついていると。
「これ、ナツメだよね? こうして見るとそれなりに見れる顔じゃないか。普段のこのぱっとしない感じはどういうこと?」
「……元々の顔が地味でぱっとしないからこそ、メイクでいくらでも化けれるんだってさ。雰囲気と表情は、演技でどうにでもするよ。これでも役者なんだし」
作品名:この心が声になるなら 作家名:なつきすい