ビル、そしてメメント・モリ
僕は顔をあらい、歯をみがいた。冷蔵庫をあけ、水を飲んだ。そして、簡単に身支度をはじめた。これが転換点なんだろうな、ということがゆっくりと実感となってわかってきた。ここらで、もとの生活に引き返すべきなのだ。真由美は当然のように家のどこにもいなかった。しかし真由美の荷物はそのまま放置されていた。彼女は一体どこにいってしまったのだろう。もっとも、真由美はこまごまとしたアクセサリーのたぐいを集めるような性格ではなかったから、私物といってもほとんどは実生活で必要最小限の洋服やビジネス書だった。つまり、もとから切実に失って困るものなど、うちにはなかったのだ。
僕は新聞をとるために立ち上がった。なにげなくポストをのぞくと、新聞のほかに、封筒がはいっていることに気付いた。封筒。僕は心当たりがないのでダイレクトメールか税務署の類だと思い、乱暴にそれを引っ張り出した。
封筒には、僕の名前が中央に明朝体で印刷されていた。だが、住所は書かれていないし、切手も貼られていなかった。不審に思い、封筒を裏返してみると、真由美の名前がそこに同じ明朝体で小さく印刷されていた。
僕は動悸がはやくなるのを感じた。真由美からのコンタクトだった。だが、冷静にならなくてはならない。僕は部屋のなかに引き返して、椅子の腰かけ、深呼吸をした。一体なにを考えればいいのだろう? 仕方なくコーヒーを淹れ、ブラックでそれを飲んだ。少しは頭がしゃっきりしたが、鼓動のはやさはどうしてもおさまらなかった。僕はあきらめて封筒の封を切った。
その文書は、すべてパソコンで書かれ、印刷されたものだった。もともと、真由美はそういったビジネス・ライクなことを好む性格だった。
僕は椅子に深く腰掛け、文字に目を落とした。それからしばらく、部屋のなにもかもが僕の視界から消えた。
拝啓
思えば、こんなふうにあらたまって手紙を書くというのははじめてのことです。考えてみれば私たち(変だと思うかもしれませんが、この手紙においてはこの一人称が一番しっくりくる気がします)は、いつだって顔をつき合わせて、お互いの思っていることを好き勝手言い合って議論していたような気がします。私が一方的に言ってるときのほうが多いような気もしましたが。これを書いている今のように、お互いがまったくちがう場所で、まったくちがう考えをもったまま、手紙という媒介を通じて気持ちを伝えたことなんてなかったみたいです。その必要も。でも、たぶん、あくまでたぶんですが、今はこうすることが一番正しいことなのだと思います。そういう時期にきたのではないかと思うのです。おそらく、私たちはあまりに長い時間を共有しすぎてきたからです。今はちょっとした冷却期間みたいなものなのです。少しは頭を冷やす必要があると思います。私にしても、あなたにしても。少しは離れた場所で、お互いに自分ことと、相手のことを見つめなおす必要があるんじゃないか、とそう思ったのです。
この手紙が肉筆じゃなく、パソコンで作成されたものであるということをまず最初にあやまっておきます。すでにあなたも知っていることだとは思いますが、あらためてここで断っておきます。どうしても、肉筆でものを書くと自分が考えていること以外のことも見透かされてしまいそうで、ただ嫌なのです。あたしが意図しているのと別の意味にとられるかもしれないと思うと、落ち着いて言葉を選ぶことができません。口で言うのと、態度で示すのとは似ているようで、全然ちがいますからね。できるだけ、中立的で普遍的な道具を使ったほうが誤解を招かないのではないか、とそう思います。それは前にも話したことがありましたね。あと、この手紙の文体がデス・マス体で書かれていることも。このほうが客観性がある気がするので、このままで書かせていただきます。
いきなりこんなことを言うのはなんですが、ちゃんと元気でやっていますか。最近、そんなことばかり心配しています。すべての根源的な問題はおいておいて、とにかくあなたの健康状態ばかりが気になるのです。これも、長い時間を共有しすぎた弊害かもしれません。いつもどおり、憂鬱そうな顔をしながらもそれなりにやっているものと信じています。でも、当然ながら今はそんなことを知ることはできません。もしかしたらあなたは、あのビルの前で死んでしまっているかもしれません。黙って家を出て行ってしまったこと、まず謝っておきます。申し訳ありません。でも言い訳するなら、あのときはあたしはそうするしかなかったのです。それしか方法が見つからなかったのです。今でもそうです。少なくともしばらくは、心の整理がきちんとできるまでは、家に戻るつもりはありません。
私は生まれてからずっとこれまで、自分が強いものだとばかり思って生きてきました。きっとこれからもそうだと思って、生きてきました。だけど、あのときあなたがあたしに向かって言った一言が、どうしても心にナイフのように刺さって抜けないのです。本当なら、そのまま力まかせに抜いてしまってどこか知らないところへ捨ててしまいたいのですが、それを抜くとそこから血がどばっとダムの決壊のようにあふれ出してきそうで、ただ怖いのです。こんな恐怖を、今までに感じたことはありません。でも、これがもしかしたらあなたと伽子がずっと抱えていた痛みのようなものなのかもしれないな、と今では思っています。そして、その気持ちを大切にするために、ナイフをずっと胸に刺しておきます。気持ちの整理と、これはまた別の問題です。これはある意味では、あたし自身が投げたナイフなのかもしれません。
ここ数日で、いろんなことを考えました。いろんなネガティブなことも、ポジティブなことも。
ネガティブなことを考えては、嫌になって、ポジティブなことを考えていました。そして、そんな自分が嫌になってくると、またネガティブに戻る。その繰り返しです。これを書いている今は、そのループの中ではポジティブな部類に入るのかもしれません。とにかく、今は、これが読まれることがたとえなくっても、自分の気持ちを整理するために必要なプロセスとして、書いています。はっきりいって、真剣に言葉を選ぶ余裕がありません。もしこの手紙のことで傷ついたり、気分が悪くなったりしたら、それはすべて私の責任です。あなたではありません。
たぶんこんなことを際限なく書いているととんでもない内容になると思うので、私がこれまで考えてきたこと、感じたことを率直に語ろうと思います。きっとそれが、うまくいく近道のような気がします。
まず、私はあなたと伽子を引き合わせたことを、後悔したことは一度もありません。それはもう出会う前からの必然だったのかもしれないな、と今では思っています。後悔はしていなかったけれど、どちらも、私からどんどん離れていく気がして、とても嫌でした。それこそ、死んでしまいたいくらい嫌でした。でも、そんな自分も、同時に嫌になったのです。だから、私は強くならなくちゃならない、とまず思いました。強くならなければ、二人とも永遠に私の前から消え去ってしまうんじゃないか、とそんな気がしたのです。
作品名:ビル、そしてメメント・モリ 作家名:八尋 慶一