ビル、そしてメメント・モリ
もちろんそれに気付いたとき、すぐに警察に行った。だけど、そう熱心に取り上げてはくれなかった。なにしろ、血の一滴、足跡のひとつも家に残されてはいなかったからだ。おまけに鍵をこじあけた跡もない。誰かが家の中にいた伽子を連れ去ったのではなく、伽子は少なくとも自分の意思で玄関より外へ出たのだ、というのが警察の出した、事実にもとづいた結論だった。近くの住民への簡単な聞き込みが行われたけど、不審者や、車の目撃情報は一切なかった。本当に煙のように、消えてしまったんだ。まあそのうち帰ってくるんじゃないですか、と気楽な様子で年配の警官は言った。僕を慰めるためなのか、それとも自分たちの仕事が楽になった安堵感からなのか、それは僕には判断がつかなかった。そして、警官たちと調書に書くための話をはじめた。僕は話せば話すほど、彼らの態度が投げやりなものになっていくのを感じた。それは彼らにとって、自分たちの書類のための捜査みたいなものだった。僕は自分でことのあらましを話しながら、自分でもそう感じていた。彼女は一体、僕の内定についてどう思ったのだろう、って。僕は、自分がずっと間違った方向に向かって全力疾走していたような気分になった」
「それで、どうなったの?」と少女は訊いた。
「それっきりだよ。僕は伽子を探した。それこそ、自分の生活が壊れるほどね。はじめはそれがこわかった。とてもとてもこわかった。僕は、自分が強くなったことを証明するために変わったんだ。だけど、あるときぷっつりと恐怖は消えてなくなっていた。強い雨が降ると傘をさす意味がなくなっていくように、僕が自分の生活を心配する意味なんて、少しもないことに気付いたからだ」
「それで?」
「僕は会社に入った。でも、入社式も、僕にとってはなんの意味もなかった。お飾りの、幼稚園かなにかのお遊戯会みたいだった。僕は入社したあとも、そんな自分自身にあいた空虚な心の穴をじっと見つめつづけていた。そして、はじめは自分で押し殺していた、自分がここにいることの存在理由、レゾン・デートルがすっかり削げ落ちていることに気付いた。要するに場違いだったんだ。僕がここに来たのは自分が強くなったということを証明するためだし、それを証明するための相手は煙のように消えてしまっていたからだ。
二ヶ月ほどで、会社を辞めた。もちろん後悔はしなかった。そこで勤め続けることは本当に意味のないことのように思えた。さっき言ったように、会社を辞めることに対して恐怖のようなものはほとんどなかった。それこそ、雨に濡れたままの身体でプールに飛び込むくらいの覚悟があれば充分だった」
「それで、あなたは、今はそれをどう思うわけ?」
僕の話は終わりに近づいていた。少女は僕にそう訊いた。僕は、自分の今の心境を、あますことなく正確に言葉にしたかった。しかし、それはあまりにハードレヴェルな問題だった。
「どうも。僕は、伽子が生きているのか、死んでいるのかどうかすら知らないんだ。でもそんなことはもはや関係ない。僕は彼女の死を覚える必要があるんだ。僕のメメント・モリは間違いなくこの場所だ。そうなんだよ、僕は死を覚える必要があるんだ。伽子が死んだ、という事実を覚える必要が」
僕は最後にそう言って、深いため息をついた。少女はそんな僕のため息をまるで無視するようにしてビルを見上げ、しばらく足をぶらぶらさせていたが、じきにゆっくりと立ちあがった。
「疲れた。でも、長いこと、ありがとう。心のつかえが取れたでしょ? ねえ、今日はもう帰って休んだほうがいいよ。そして、また明日も来てね。あたしは毎日、ここに来るから。心配しないでいいよ。あたしは消えたりしないから。少しずつ、少しずつ、吐き出していけばいいんだよ。少しずつ、少しずつ」
少女はそういうと、振りかえらずに駆けていった。僕はその後ろ姿を目で追っていた。だけど、途中から焦点が合わず、視界が水に入ったあとのようににじんで見えた。
家についてからも、その不思議な現象は尾をひいていた。僕は自分の視力が下がってしまったのか、と思った。ぶんぶんと頭を振ってからあたりを見渡してみたが、なんの解決にもならなかった。だが、医者に行かなければならないほどの現象とは思えなかったし、そんな気力もなかった。僕はあきらめていつものようにどさっとソファーに倒れこみ、静かに目を閉じた。かすかにずきずきと目の奥が痛んだ。今はそうすることがとにかく一番大切なことのように感じた。ちょっとしゃべりすぎたようだ。だが、それから眠りにつくまでには気の遠くなるほどの時間がかかった。伽子の笑顔が、目の奥につららのようにこびりついていた。目を閉じているときに浮かぶヴィジョンを振り落とすことはきわめて困難だった。やがて僕はあきらめて、目の奥の伽子に笑いかけた。
だが伽子は、僕に反応するわけではなく、ただ漠然とした微笑みをたたえているだけだった。
少女には、僕と伽子と真由美にまつわることをすべて話したつもりだったが、当然話せなかったところもあった。伽子が完全に消えてしまうまでの話だ。僕は伽子がいなくなってからも、毎日のように伽子の家まで行った。だがもちろん、家には誰もいなかった。誰もいない家に行くのに耐えられなくなって、僕はだんだんその家に行かなくなった。だがひと月ほどしてふたたび様子を見に行ったとき、家はもう跡形もなく消えてしまっていた。物理的にも、伽子がいたという証拠さえも、僕の前から消え去ってしまっていた。
伽子は、一体どこにいってしまったのだろう? 僕は無意識に、そのことを心の奥に追いやってしまっていたのかもしれない。なぜなら、その事実を思い出しただけで、僕の心は信じられないくらいの深い傷を負ったからだ。僕にはもうなにひとつ残されていないということを知ったからだ。それは僕が無意識に忘れ、そして直面したくないという事実そのものだったのだ。
僕の目の中で、伽子は笑っていた。それも、僕の知っている健康的な肌ではなく、初めて会ったときのアルビノのような、雪原のような白い肌とともに。
僕はいったいどこに行こうとしているのだろう? こんな生活に一体なんの意味があるのだろう? 少女にこういった僕にまつわる話をすべて洗いざらい告白したということは、僕は僕自身に降りかかってきていた事実をそのまま受け入れ、清算しようとしているのか、と思った。これがもしかすると転換点なのか? それとも……。
いろんな思考が堂々巡りをした。当然ながら結論はでなかった。だが一晩で解決するような問題なら、僕はこれまでこんなにも悩むことなんてなかっただろう。
目を覚ますと朝だった。その感覚も、ここ数週間、毎日体験していたことだった。なにかを考えているうちに、意識を失うように眠りにつき、朝をむかえる。その繰り返しだった。こんなすさんだ生活に、出口があるとはとても思えなかった。
作品名:ビル、そしてメメント・モリ 作家名:八尋 慶一