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八尋 慶一
八尋 慶一
novelistID. 46050
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ビル、そしてメメント・モリ

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「いい、必ずいつかは誤解すると思うから、はやめに言っておくけど」と、真由美はきつい口調で僕にそう言った。真由美がなにかを真剣に語ろうとするとき、僕はいつも緊張する。それははじめて伽子の家を訪れた帰り道のことだった。
「伽子には、友達がいないの。何人かはいたんだけど、今はもうほとんど誰ともコンタクトをとることができないの。誰も、もう伽子に関わるまいと思ってるの。あの子は、なにも悪くないのにね。伽子の目が見えないのは先天的なものじゃないわ。事故だったのよ。交通事故。お医者さんに訊いたら、こういう信じられないような悲劇的なことはわりによくあることなんだって言ってたわ。信じられる? あたしはいまだにうまく実感がつかめないわ。だって、そんな理不尽なことが世の中にはごろごろ転がってるなんて、誰が信じられる? まったく関係のない、運命のとばっちりみたいなもんよ。世の中には、無意味で理不尽な暴力があふれている。そう思わない? 無駄遣いよ、なにもかも。でもとにかく運の悪いことに、伽子はまったくの事故で永遠に視力を失ってしまった。
 だけど、それで、彼女の人生が百八十度変わってしまったというわけでもないのよ。もしかしたら、遅かれ早かれこうなっていたのかもしれない。もともと内向的な子だったからね。でも、あの子は徹底的に人のぬくもりというものを知らなすぎるのよ。温もりを知らないで、大きくなったのよ。誰にだって愛されなかったんだから。知らないから、求めようともしない。あの子の肌、見たでしょう? 降ったばかりの雪みたいに白い肌。外にも出ないで、一日じゅうあの家に閉じこもっているのよ。
 だから、あなたにお願いがあるの。ときどき、本当にときどきでいいから、あの子に会ってやって欲しいの。本当にときどきでいいわ。それも、そんなに長い時間でなくてもいい。あたしが遊びに行くついでに顔を出すだけでも。
 でも、本当にこんなこというのは気がひけるんだけど、あたしはそのためにあなたに近づいたんじゃないわよ。本当よ。こういったことははやめに言っておいたほうがいい、と思っただけなの。それにほら、そんな打算的な行動がとれる女じゃないから。知ってるでしょう? あたしは、あなたの中にあるなにかを、切実に求めているだけなのよ。本当よ。信じてくれる?」
 それは決して上手い表現とはいえなかったが、逆にそのたどたどしいレトリックのなかに僕は真由美が正直になにかを伝えようとしているのだという熱意を感じることができた。真由美はそこまで器用に自分の感情を人を利用する方向にコントロールできるタイプではない、ということはもちろん知っていた。彼女が真剣になにかを語るとき、それは真実のはずだった。少なくとも、僕はそうであって欲しいと思った。
「もちろん、」と僕は言った。そして、しばらく考えた。「君の友達なら、それは僕の友達だ。延長線上に僕らの友人関係はある」
 そう言ってから真由美を見て笑いかけると、真由美もつられてくすりと笑った。

 そうやって、僕の人生に深く関わる人物のリストのなかに、伽子が加わることになった。
「いいんだよ、気を遣わなくっても」と真由美はリビングに引っ込んでいった伽子に呼びかけた。でも返事はなかった。
 真由美と僕が靴を脱いで部屋に入ると、そこは何十畳もある、応接間のような空間が広がっていた。ここだけは、わずかではあったが温かみのあるインテリアがそこここに飾られていて、僕はそれだけでずいぶん内装の雰囲気が変わるもんだな、と息をのんだ。気取った数ではないだけに、そのひとつひとつの皿や置きものがとても誠意のある、上品なもののように思えた。伽子はソファーの前にあるテーブルに紅茶を置いた。僕が室内の様子に目をまるくしていると、「どうぞ腰掛けてください」と伽子は言い、微笑んだ。
 僕は言われるままにソファーに腰掛けたが、真由美は座ろうとはしなかった。僕が不思議そうに見上げると、「あたしはやることがあるから、少しふたりでなにか話してて」と言い、部屋を出て行った。伽子は、ゆっくりと僕の隣に腰掛ける。
「す、すみません、と、突然」と僕は言った。昔なおったはずの吃音がわずかに復活した。伽子はいいえ、と首をふる。
「およびしたのはこちらですから。真由美に、恋人が出来たって聞いたもので、あたしが、どんな人かな、って質問しただけなんです」
「そうしたら?」
「とても強い人だって言ってました」と、笑った。僕も笑った。まったく、正反対もいいところだ。伽子は目をほとんど開けず、紅茶のカップを手にとり、それを飲んだ。
「伽子さんは、いまは何を…?」
「いえ、とくに今は、なにも。本当になにもしていません。家で本ばかり読んでいます」となぜか申し訳なさそうに言った。そこではじめて、僕はテーブルの上に普通の本屋では見かけないくらい分厚い本が置かれているのに気付いた。それはテレビかなんかで見たことのある、点字の本だった。
「あの、ひょっとしたら真由美から訊いてるかもしれませんが……」と前置きして、伽子は僕を見た。僕ははい、としっかりした発声で言った。吃音はでなかった。伽子の目は焦点があってはいたが、僕の目にではなく、僕の口に向けられているような気がした。
「あたし、目が見えないんです。ほとんどなにも。いえ、別にそれで特に困ってるというわけではないんです。日常生活では、ほとんどなにひとつ障害といったことは感じません。他人様から、自分が障害者だってことをはっきりと認識させられたこともありません。あたしはお掃除もできるし、料理だって作れます。もちろん会話だってできます。こうやってお客さんが来ても、紅茶を淹れるぐらいのこともできます。だから、そういった意味では目が見える人とほとんどなにも変わらないと思うんです。本当です。だから……」
 伽子は僕から視線をそらし、目を伏せた。おそらく、目が見えていたときの感覚がそのまま残っているのだろう、伽子はこちらがなにかをしゃべれば、その声をたよりにこちらに視線を向ける。それは伽子のなかではひとつのヴィジョンとして僕を捕らえているなによりの証拠のように感じられた。
「もちろん、それはあなたのごく個人的な事情のひとつであって、僕としてはそれがあなたの評価が下がる理由にはなりえません」とつとめて冷静に僕は言った。
「当たり前のことですけどね」と付け加えて。
 伽子は目を細めて、ふたたび笑った。
 実際、それから僕は頻繁に伽子のもとを訪ねるようになった。僕らが仲良くなるのに時間はかからなかった。僕らはあらゆる面でとても似ていたからだ。自分の檻をつくり、そこから外を見るのが好きな性格だった。

   ※

「本当に、僕らはよく気が合った」と僕は隣に座る少女にそう言った。ビルの前の人はかなりまばらになっていた。もうみんな、ビルのなかで忙しく働いている時間なのだろう。
「彼女は丁寧な言葉遣いはいつまでたっても崩さなかったけど、いつだって僕の話を真剣に聞いてくれた。彼女自身の話も真剣にしてくれた。もちろん僕らは互いのことであれば真剣に話をしたし、真剣に話を聞いた。僕も彼女も似たもの同士だったんだ」