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八尋 慶一
八尋 慶一
novelistID. 46050
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ビル、そしてメメント・モリ

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 次の日もやっぱり僕はビルの前にいた。少女はいつもと同じような時間に現れた。だが、いつものように携帯電話をいじらず、まっすぐ迷いなく僕のほうに向かって歩いてきた。
「ほら、やっぱり来たわね」
 少女の声には、どこか誇らしさのようなものがあった。そして、僕の瞳を正面から見据えた。僕は視線に気圧されたわけではないと自分に言い訳しながら、目を伏せた。
「僕はいつでもここにいるだけだよ」と僕は言った。少女は、それに対して、ゆらゆらと首をふってみせた。
「ちがうわ。あなたは語るべき物語をもっているし、また、その物語は語られたがっている。ちがう? はっきりちがうって、言い切れる?」
 少し考えて、僕はちがう、と言った。少女はため息をつく。
「それじゃあ、なんでここに来てるの?」
 しばらくみつめあったのち、少女は僕の隣に腰掛けた。そして、子どもに諭すような口調で、言った。
「懺悔って知ってるでしょ、お兄さん。東洋にはない、西洋の文化のことよ。牧師さんに、自分の罪を告白し、神の赦しをもらう、っていうやつ。時代錯誤だって思う? 実はあれね、今は、懺悔をするためだけの部屋があるんだって。懺悔室。そこで告白した内容は絶対に外部に漏れないの。そこで人々は心の救済を得る。いい、心の救済よ。でも、日本にはそういう場所はない。システムもない。必要としている人はたくさんいるのにね。まわりをよく見て。だあれもあたしたちに関心を寄せてないでしょ。ただ、知らんぷりして隣を通り過ぎていくだけ。あたしたちはまるで、置きものみたいなものなのよ。ただ、吸い取られ、そして、吸い取るための置きもの。搾取され、搾取するためのもの。そんなものにいったいなんの意味があると思う? でも、残念だけど、それは仕方のないことなのよ。みんな、自分のことで手一杯なんだから。人の罪に耳をかたむける余裕なんて誰にもないのよ。ねえお兄さん、あなたは語るべき罪をもっているんでしょう? 話すべきよ。そして楽になりなさい。チャンスなんだから。あたしが聞いてあげる。最後までね。ここはあなたの懺悔室よ。そうやって、自分のなかに閉じこもることが罪なのよ。あたしが、最後まできちんと聞いてあげるから」
 あたしが、最後まで聞いてあげるから。少女の言葉を反芻する。自分の胸に手をあてる。僕の中から、警戒心というものが削ぎ落ちてしまっていることに気付いた。
 僕はうつむき、「メメント・モリ」と小さな声で言った。僕が語るべき言葉は、まずそこからはじまるのだ。それは幻想の狭間ではなく、現実の僕の話だ。
「ラテン語で、原義は『死を覚える』。または想起させるもの」
 僕はトーンを下げたり、また変にあげたりしないように気をつけながらそう言った。少女は変な顔をせず、かわりにくすりと笑った。
「知ってる。でも、メメント・モリって普通はこういうものを指すと思うんだけど」
 そういって、少女は自分の胸元に手をそえた。僕がそちらに視線を向けると、少女の手にはドクロのペンダントが握られていた。おどろおどろしくひび割れたデザインが施されたその眼は赤く染まっていた。『死を想起させるもの』。僕のイメージより、さらに直接的なもの。僕はため息をついた。
「人によってそれは違うんだよ。僕にとってのメメント・モリはここなんだ」
 僕はそういって、ビルを見上げた。少女も同じようにビルを見上げる。
「変な人。そんなこと言う人ははじめてだよ、で……」
 僕に視線を戻す。
「……それが、物語のはじまりなの?」
 僕はちいさく頷き、大きく息を吸った。

 僕は、本質的によわい人間だった。もちろん、意識してそうなったわけではない。だが気付いたときには、僕は人々から大きく取り残されるくらい、よわいという事実に気付いた。あるいは、成長というものがまるでなかったのかもしれない。僕はまわりの人間が段階的に成長していくのに対し、それについていけない自分をただ感じているだけだった。
 しかし、成長がおそいということで、とくにひどくいじめられたといったような記憶はなかった。加速度的に激化するいじめの現場、というテレビの報道を見るたび、それが遠く離れた別の世界の話のように感じられた。僕のまわりで起きるものごとは、それらとは根本的に異なっていた。僕はたしかに取り残されてはいたけれど、とくにそれが精神的に深い傷を残すほどではなかった。むしろ、まわりの人間は積極的に手をさしのべてくれたのだ。
 しかし、僕は精神的な充足を感じることができずにいた。僕は常に空腹だった。飢えていた。肉体的なことでいえば、僕はとても足がおそく、反応も鈍かった。どもりもあった。まわりの人間は僕を気遣ってくれた。しかし、僕が満足することはなかった。永遠に、僕はみんなの足かせであり続けた。みんなは、文句もいわず、僕が足かせであることを容認してくれていた。僕はそれがただ、悔しかった。
 真由美も、そんな人間のうちの一人だった。真由美がいつから、僕と個人的に親しくなったのか、まったく覚えていない。それは、彼女が僕にとって最初は大多数のうちの一人にすぎなかったからだろう。彼女はいろんな意味で、まわりの人間と大差はなかった。すこし反応の遅い同級生を、ほんのすこし先からそっと手を差し伸べてくれるような存在だった。僕はそんな存在に対して感謝はしたけれど、心を開くことはなかった。口は開いたけれど、語ることはなかった。身体に触れることはあったけれど、交叉することはなかった。僕はいつだって、見えない檻のなかに自ら閉じこもっていた。みんなと会話をし、触れ合っている間も、そこから出ようとはしなかった。それに気付いている人間もいれば、気付いていない人間もいた。気付いている人間から、すこしずつ、目に見えないくらいすこしずつ、僕から離れていった。僕はそれは仕方のないことだし、また当然のことだと思っていた。やがて誰ひとり僕にかまわなくなるだろう。そんなことも当然のこととして、はやいうちから受け入れていた。
 真由美はきっと、それに気付いていた側の人間だったと思う。でなければ、逆にものすごく鈍感であるか、どちらかだ。彼女は僕に自然に接してくれた。もちろん僕は檻の中から彼女をじっと傍観していた。手が触れても、それはなにか透明なグローブ越しに触れているような感覚にしか僕は感じなかった。僕は決して彼女に心を許すことをしなかった。
 しかし、彼女が他の人間とはちがう、特別な点があった。彼女は他の人間とはちがって、僕を求めていたのだ。それも、僕の人間的ななにかを求めていたのではなく、僕自身の、よわさそのものを求めていた。僕は確証はできなかったが、おそらくそうであるだろう、と感じるようになっていた。彼女は、僕を求めているのだと。