ビル、そしてメメント・モリ
「……悲しいわよ……悲しいに決まってるじゃない……」
僕は自分の刃物で、真由美の心から血がながれるのを見た。真由美は僕よりいつだって強かったのだ。僕はそれ以上なにかを言う気力がなくなり、ソファーまで歩いていき、それに倒れこんだ。真由美は動こうとはしなかった。僕はテレビの電源を落とした。瞬間、うるさいぐらいの静寂が津波のように押し寄せてきた。
真由美は僕が気付かないくらいゆっくりと、スムーズに立ち上がり、ドアのほうへ向かっていった。どこへ行くの、と僕はつとめて冷静に訊ねた。タバコ、と真由美は消え入りそうな声で言い、サンダルに足をひっかけて出て行った。僕はしばらく、あてもなくドアノブのあたりを眺めていた。普段ビルの前でそうしているように。
僕はなにを信じればいいのか、根源的な部分が大きく損なわれているようだった。なにひとつ信じることができない。目の前の状況は、リアリティを失った、フィクションの世界のようだった。どこかからか見えないガラスになっていて、向こう側から誰かがこちらを見ている。そんな感じさえするようになった。真由美だって、そして、この僕だって、誰かに作られたものに過ぎないのだ、と。
僕の意識がふたたび表層に浮かびあがったとき、すでに日が落ちて数時間が経過していた。部屋の中は人工的なぺらぺらした蛍光板が貼り付けられているように見えた。テーブルに目をやっても、やっぱり真由美はそこにはいなかった。椅子の上には真由美のバッグが無造作においてあった。僕は真由美がタバコを買いにいった、という事実をぼんやりとまるで絵本の物語のように思い出した。しかし、目の前の状況とその言葉がまったくといっていいほど結びつかなかった。途中から、全くジャンルの違う別の小説を読んでいるような、そんな気分にさえなった。
バッグを開ければ、そこにタバコが入っているかどうか確認するのは簡単だったが、僕はそうしなかった。できなかった、といったほうが正しいかもしれない。代わりに、僕は箪笥を開けて、ふたつの結婚指輪を取り出し、テーブルに置いた。僕はそれを信じられる唯一のものだと思っていた。だが、目の前に転がっているそれはひどく弱々しく、欺瞞に満ちていた。
※
朝、僕はいつものように布団のなかからアパートのそばの電柱を眺めていた。いつ布団を敷いたのか見当もつかなかったが、とにかく僕は布団にくるまり、いつものようにそうしていた。身体を起こしたが、真由美はどこにもいなかった。真由美は出て行ったのか、それとも出かけていったのか、判別できなかった。僕には事実を楽観視する余裕さえなかった。事実を事実として受け入れるほかはなかったのだ。とにかく、真由美はそこにはいなかった。
僕にあれこれ考える必要はなかった。僕はいつものように身支度をして、家を出た。
ビルは今日も変わらなかった。いつものように幾何学的な線の集合を、僕の視界に展開するだけだった。そこにいる全ての人間が僕を無視していた。その孤独感と、無力感こそが、僕の欲していたものだった。今は真由美もいない。僕のそばには、誰ひとりいない。このまま僕も静かに消えてしまったほうがいいとさえ思うようになった。
僕の目は、ふたたび少女の姿をとらえていた。例の黒い服を着た少女だ。少女は毎日、この時間になるとここに現れる。お互いにずいぶん目立つ存在だったが、まわりの人々は一切僕らに注意を払おうとはしなかった。
僕は視線をそらさず、正面から少女を見続けた。少女はいつものように携帯電話をいじっている。たまに、ちらちらと上目遣いにこちらを見る。視線がぶつかるたびに冷や汗が流れたが、僕はそのまま自分の視線を固定する。少女が一体なにをしているのか、僕は知りたくなった。矛盾している。僕は孤独を求め、ここにやってきた。視線をそらし、右手で汗をぬぐう。矛盾している。
気付くと、少女は僕の目の前に立っていた。まるで石像かなにかを見るような、抽象的な瞳で僕を見下ろしていた。
「今日はあの人、いないんだね」
少女は僕に話しかけてきた。予想と違い、ずいぶん澄んだ声だった。発声がしっかりしている。僕は少女のコンタクトの意図を探った。しかしなにも思い浮かばない。あの人、というのが真由美のことであると気付くのにいくらか時間がかかった。
僕はなにもしゃべらないつもりだったが、帰ってこないんだ、と小さな声で言った。「君、知ってたの?」と、さらに小さな声で補足する。
少女は僕の前に立ったまま、足をぶらぶらとさせた。僕がこんなにまで緊張しているのに対し、少女はどこか昂然とした空気をまとっていた。
「まあね。だって相当目立つよ、あんた」
君だって相当目立つよ、と僕は普段のトーンで言った。
「お兄さん、普段はなにしてる人なの?」
「無職、って言ったら、驚く?」
「驚かない。どうせそんなところだろうと思ってたし。身体が発してるオーラなんかでもわかるよ。ねえ、あたしはなにしてるように見える?」
「さあ。学校は行ってないみたいだね」
「今はボランティアみたいなことしてる。ねえ、あの人のことで悩んでるなら、あたしに相談してみてよ。なにか力になれるかもしれないよ」
少女はそういって、僕の隣に腰掛けた。僕はなんて返したらいいのかわからなかった。少女が僕をからかっている、そんなふうにとることもできたが、僕は仮にそうでもかまわないな、と思った。しかし、僕は語るべき言葉を持たず、いつまでも沈黙していた。
「ねえ、話せばすっきりするかもしれないよ。試してみてよ」
少女はいつまでたっても口を開かない僕を覗き込むようにして言う。
「……なんで出会ったばかりの君にそんなことを言わなくちゃいけないんだ?」
「……そうやって逃げるの?」
少女は言葉を切る。
「そうやって逃げるから、あの人だって帰ってこないんじゃないの? 違う?」
僕は息だけ吸い込んで、また沈黙していた。違う、と言い切ることはできない。図星だね、という顔を少女はした。
「どうせ明日も来るんでしょ。あたしも明日来るから。ねえ、せっかくだから試してごらんよ。楽になると思うよ?」
その日は、いつもよりかは長い一日になった。だが、とくになにかをしていたというわけではなかった。ただ単に、僕は自分の意識をずっと保ったままだったのだ。家についても、僕はテレビをつけず、ずっと少女のことについて考えていた。一体少女は何者なのか。そして僕の救済とは、少女に語ることで解決する種類のものなのだろうか? 少女になにかを語ったところで、僕にはなにかの解決になるとは思えなかった。単なる馴れ合いで、どこにも行けない行為のように感じたのだ。
その日の太陽が西に沈んでからも、真由美は帰ってこなかった。電話一本入ってこなかった。僕はそれを予測していたつもりだったが、思っていたよりもその事実はずっとずっと深く僕の心をえぐった。それは青く、暗い水槽みたいな空虚さだった。僕は黙って出しっぱなしだった指輪を箪笥にしまい、冷蔵庫をあけて水を飲んだ。それくらいしかすることがなかったし、する気力もなかった。それから、コップを時間をかけて洗った。眠りについた時間も、いつもよりずっとはやかった。
作品名:ビル、そしてメメント・モリ 作家名:八尋 慶一