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八尋 慶一
八尋 慶一
novelistID. 46050
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ビル、そしてメメント・モリ

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 アパートに着いたのは昼前だった。自分が一体なにをしていたのか、思い出すことはほとんどできなかった。ただベンチに座って、ビルを眺めていただけだ。なにを考えていたのかも、思い出すことができない。思考的なルーティン・ワーク。
 僕はテレビをつけ、一人掛けのソファーに倒れこんだ。場所を自宅に移し、ふたたび思考的なルーティン・ワークがはじまっただけだ。ただテレビの画面を眺めているだけでいい。途中寄った本屋で手に入れた就職情報誌がテーブルの上に無造作に投げ出されている。あとは、夕方に米をとぐだけでいい。他にすることはなにもない。
 慣れていく。だがそれは、僕が求めているものだ。

     ※

 ドアに備え付けられた安いカウベルの音で、僕は意識を表層に戻した。いつの間にかまどろんでいたようだった。窓の外に目をやると、空はもうすっかり赤みを失っていた。僕は条件反射的に立ち上がった。真由美がじっとこちらを見ている。そのままの姿勢で、ただいま、と真由美は言った。
「ごめん、なにもしてない」
 そんなことはわかっているとばかりに真由美は視線を落とし、パンプスを脱いだ。怒っているのか、そうでないかの判別がつかなかった。真由美は椅子のうえに鞄を置くと、電気をつけ、ため息をついた。
「疲れた。でもいいわ、すぐなにか作る。ゆっくりしてて」
 そういって隣の部屋に入っていく。すぐに、着替えるときの衣擦れの音が聞こえはじめた。僕は真由美のいうとおり、ふたたびソファーに倒れこみ、じっとしていることにした。真由美の機嫌がいいのかどうかはよくわからなかった。ただひとつわかることは、下手に動かないほうがよさそうだ、ということだけだった。真由美はめったに怒らないが、そのかわりいったん怒りはじめると容易に止めることができない。それは今までの長い付き合いの中で自然に学んでいったことだった。
 真由美は僕よりも背が高い。僕の身長は一六七センチしかない。それぐらいの男性はごろごろいるが、真由美は一七〇センチと少しはあるようだ。普段の状態で僕より背が高いのだから、街中で僕とならんでハイヒールなど履けるはずもない。もっとも、真由美はハイヒールが似合うような女性ではなかった。見た目はかなりすらりとしているが、服の下に隠れている筋肉はおそろしくひき締まっている。仕事が忙しい今でも、週に一度は近所のスポーツジムに通い、水泳とテニスで汗をながしている。
 僕たちはほとんど対極といっていいほどに異なっていた。僕は運動はまるで駄目だし、人の目をみて話すのが苦手だ。真由美はどんな相手に対しても冷静に、きわめて事務的に対処していけるという特技を、かなり若いころから、おそらくは無意識的に習得していた。その姿があまりにもさまになっていたのか、彼女があまり人間関係で苦労している様子はなかった。みな、彼女が口を開くと黙り込み、彼女の主張に耳を貸すのだ。
 どういうわけか僕は中学に入学した年の春に彼女と出会い、そしてそれから十年以上の時を共有した。僕らはお互いをこれまで必要としていたし、また、これからもそうだと信じていた。少なくとも僕は、ということだが。
 しばらくすると、隣の寝室から真由美がジーンズにTシャツ姿というラフな格好で出てきた。こちらを見ようともせず、キッチンに向かう。
 僕はぼんやりした頭のままで、テレビをつけた。いつのまにか、テレビは消えていた。まどろんでいるあいだに無意識のうちにスイッチを切っていたのかもしれない。画面には、屋台のラーメン屋の主人とレポーターが早口でなにかしゃべっていた。僕は画面を見るなり、電源を落とした。
 真由美は無言で野菜炒めをつくっていた。沈黙が重く、僕はなにをしたらいいのかわからなかった。こんなことは、出会ってからそうそうなかったことだ。僕らはいつも、なにかしら言葉を共有していた。しかし、今はそれはない。
 それはなぜか。理由は簡単だ。
 お互いの考えていることがわからなかったからだ。

 真由美は無言で、野菜炒めを皿に盛った。それがテーブルに置かれることんという音を合図に、僕はソファーから立ち上がった。真由美は電子ジャーを空け、なにもはいっていない中身をじっと見つめていた。
「だから、なにもしてないって」と僕はあわてて言った。
「そういえば、そう言ってたわね」と思い出したように言って、真由美は僕に微笑みかけた。それがどういった感情を持つものなのか、とっさには判断できなかったが、僕はとりあえず安心してテーブルについた。
「いただきます」
 箸を動かすと、真由美が立ち上がり、テレビのリモコンをとった。僕の背中から洋楽が聞こえてきた。きっと、自動車のCMだろう。ものすごくキャッチーなメロディーとリフの曲だった。だが僕らの間にある沈黙を、テレビがかき乱した。不自然な音だ。そう思った。
「今日は忙しかった?」
「うん、まあまあ」と真由美は抑揚のない声で言った。それ以上、なにを話せばいいのかわからなかった。
 真由美は家では会社の話題を避ける傾向にあった。僕のことに関しても、そうだ。そのあたりも、とても事務的で無感情だった。しかし、この場合、どんな話題をふればいいのか、僕には思いつけなかった。
「今日一日で、なにか変わった?」と真由美は言った。
「少しは」
「たとえば?」
「たとえば…………」と僕は宙をにらんだ。「少しだけ、テレビが嫌いになった」
「…………なぜ?」
「…………さあ」
 真由美はそっと目を伏せた。
 それから、いくつかやりとりがあったが、僕は思い出すことができなかった。僕は昔のことを思い出していた。十年も前のことじゃない、もっと最近のことだ。
 真由美がばんと机をたたいた。僕はぼんやりと頭をあげる。目の焦点を合わせるのにさえ時間がかかった。
「ねえ、聞いてるの?」
「うん」と僕は言った。
「いつまでも、傷ついてるフリばかりして。ねえ、よく聞いて。これは真剣な話なのよ。あたしもね、いつまでも隣にいられるわけじゃないの。昔っから、あたしはあなたのそばにいたけどね、なにも変わらないで、そうやって傷心のフリばかりしているのに付き合う事なんてできないのよ。ううん、会社のことを言ってるんじゃないの。それはもうお互い消化できてる。違う? ねえ、くやしくないの? 強くなってよ。なにがこれでも強くなった、よ。なにも、なにひとつ、変わってないじゃない。強くならなきゃ、生きていけないんだよ」
 真由美は嗚咽を繰り返しながら、そう言った。僕は真由美の遠慮呵責のない真摯な言葉を受けて、ふっと頬が紅潮するのがわかった。自分のなかのなにかが弾け、僕は椅子から立ち上がっていた。
「悲しくないのかよ! 人がひとりいなくなったんだよ。それでも、悲しくもなんともならないのかよ! 強くなれって、彼女のこと、なんとも思って……」
 僕は言葉を切った。それ以上、言葉を発することができなかった。真由美はうつむいていた。僕の言葉に打ちのめされているようだった。
 僕は自分の興奮が、その真由美の態度で氷結していくのを感じた。頭にのぼった血が冷え固まるのがわかった。真由美はかすかに肩をふるわせた。膝に一滴の涙が落ちる。僕が目にした、真由美のはじめての涙だった。