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最後の日

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最後に桜を見たいと思った。穏やかな春の夜にかけがえのない思い出のある、あの場所で――
                 ※

 毎日が全く面白くなかった。仕事をしていても、休みの日を過ごしていても、酒を飲んでみても、心が踊るようなことは何一つなかった。
 三十八歳独身。生命保険会社勤務。役職は主任。年収七百万。この御時世を考えれば、僕は充分なステータスをもっていた。
 でも、僕は孤独だった。中学二年の時、ある日突然、母が何の予告もなく家を出て行った。理由は職場の上司との不倫。その上司が大阪に転勤になったのを機に仕事を辞め、背中を追いかけて大阪に行き、水商売をしながら単身赴任となったその上司のマンションに足繁く通っていたらしいのだ。
 真面目で優しくて穏やかな性格の父は母の不貞に全く気付かず、突然いなくなった母のことを何かあったのではないかと心配し自分が裏切られ愛想を尽かされたなどとは全く想像しなかった。
 母の安否と行方を知る為に探偵事務所に依頼をした。それで始めて真実を知った父は愕然とし、魂を抜かれたようにうつろな目で下を向いた。
 次の日、僕が学校から帰ると玄関に仕事に出かけたはずの父の革靴がきれいにそろえて置いてあった。不思議に思い、居間に入ると……そこには変わり果てた顔をした父の体が宙に浮いていた。
 外は桜が満開で、人々が花見の席で談笑し、暖かい春を穏やかな日差しを心地よい空気を感じている。でも、帰ってきた我が家はまるで、自分の家の上にだけ黒い雲が乗っかり、雷が落ち、激しい雨が降っているような、そんな感じがした。
 僕はその時に思った。優しい人間は不幸になり生きる望みを失くし、欲望の赴くまま平気で裏切る人間がのうのうと生きてゆくのだと。
 その時から、僕は女性を信じられなくなった。中学三年の一年間、高校生活、大学生活、そして社会人になっても、僕は恋人などおらず、一人きりだった。
 両親を失った僕は父の弟にあたる親戚のおじさんに引き取られた。おじさん夫婦も僕が高校を卒業した時に離婚してしまった。その理由については興味がなかったのでよくわからないが、どうやら父の家系は幸せな結婚生活を送ることができない因縁があるようだった。
 つまりは父の血を引いている僕も誰かを愛しても、きっと結婚は失敗する。それならば、恋愛もしない方が良い。誰ともかかわらない方が良い。そう思ってこの歳まで孤独を貫き通してきた。
 ただ、過去にたった一人だけ……、心を奪われそうになった女性がいた。その人を好きになってしまいそうになった。
                   
 田中里美さん――。大学生の時のバイト先の仲間だった女性だ。その当時、彼女は二十九歳。僕と彼女は有楽町の駅前に新しく建設されたオフィスビルの中にあるカフェでバイトをしていた。僕は厨房でカフェのメニューの担当。オーストリアのウィーンの喫茶店からレシピを取り寄せたというその喫茶店のコーヒーやパフェはどれも本格的で、厨房での調理はコーヒーをカップに注ぐだけとか、ガラスの器にアイスや生クリームをただ積み重ねるというような簡単なものではなかった。
 お客様に提供する形も銀製のトレーに見栄えが良いようにぴったりと配置が決まっており、デッシャーと呼ばれるセットする担当も速さと見栄えの両方のクオリティを保たなくてはならず、なかなかのスキルが必要とされる仕事だった。
 彼女はそのデッシャーを担当することが多かった。彼女が一番、仕事をこなすことができたからだ。厨房とデッシャーの連携はとても重要で厨房側からは、次にどの商品が出るのかをデッシャーに伝え、デッシャーはそれに応じて迅速にセットをする。
 僕と彼女の連携は息がぴったりで、彼女と組む時はどんなに忙しくてもスムーズに注文が通り、お客様にもそれほど待たせることなく提供ができた。
 厨房から商品を出すときに幾度となく彼女と目があった。そこには僕が否定しつづけた信頼があるような気がした。目が合ったときに時折見せる彼女の笑顔に心を揺さぶられることもあった。
 
 三月の下旬のある日。桜の蕾も膨らみ始めて、もうすぐ春という時季に季節外れの寒波がやってきた。早朝から雪が降り東京都心も積雪を記録した。午前九時には十センチの積雪となり、電車は運転見合わせや遅れが相次いだ。その日に出勤するはずの従業員も足止めを食らい、まともに出勤できたのは僕と田中さんだけ。店長も開店の十分前になっても到着していない。
 あわてて店長の携帯電話に連絡をしてみる。
「店長、大谷です。今、どこにいらっしゃいますか?」
「ごめん、電車が動いていないのでタクシーでそっちに向かっている。でも、道路も渋滞していて車がなかなか進まないんだ」
「僕、鍵とかもってないのでお店開けられないですけど、どうしますか?」
「ビルの管理室に行って、事情を話せば鍵を渡してくれるはずだから、大谷君が店を開けてくれるかな? ほかに出勤しているスタッフはいないの?」
「あとは田中さんだけです」
「そうか、君と田中さんなら二人でも大丈夫そうだ。俺が行くまで、なんとか二人で頑張ってくれ」
「わかりました。やってみます」
 何とかいつもの時間に開店し、普段と同じようにお客様を迎える準備をするが、その日は日曜日で会社が休みということもあり、お客様は全く来ず開店休業のような状態だった。僕は厨房から出てホールで田中さんと外の様子をみていた。
 向かい側の建物は全面ガラス張りの多目的ホールになっている。その建物との間の通りは普段ならば多くの人が行き交い、ランチのお弁当などを販売するワゴン車が多く留まり、開店の準備をしているはずだった。しかし、さすがに今日は歩く人などほとんどおらず、弁当販売のワゴン車も一台も来ていなかった。
 チャコールグレイのアスファルトは雪が積もって真っ白になり、通りのあちらこちらに植えてある街路樹の枝には、うっすらと雪がまとわりついている。いつもは都会的な冷たい印象のモノクロの世界が今日は温かみのある水墨画のように見えた。
「綺麗……、雪って本当に綺麗だね」
 彼女の声はとても綺麗だった。綺麗? いや、なんだろう。なんて形容したらいいかわからない。ただそれは心にじんわり沁み込んで、何とも言えない心地よさがあった
「私、沖縄の出身だから雪ってほとんど見たことないの」
「田中さん、沖縄だったんですか」
 彼女が時折見せるおおらかな笑顔は沖縄で育った賜物なのだろうか。
「雪、あの日以来だな……」
 そうつぶやいた彼女の表情を見ると、大きく見開いた眼には薄い膜ができ、ほんの少しの厚みを帯びているような気がした。そこから一滴の水が流れ、薄い膜は壊れ、その厚みは消えた。
「……」
 僕は彼女の顔から眼をそらした。そのまま見てしまうと、自分の心に変化がおきてしまうのではないかと思った。今まで自分が頑なに閉ざしてきたものに変化が起きたとしたら、それは良いことなのだろうか、それとも悪いことなのだろうか。
作品名:最後の日 作家名:STAYFREE