拝み屋 葵 【弐】 ― 余暇見聞録 ―
(三)拝み屋 葵
塗られたワックスが光る板張りの道場で、赤白二人の剣士が向かいあっていた。
しんと静まり返る場内では、仕合う二人をぐるりと囲んだ観衆が固唾を呑んで見守っている。
二人の剣士は、どちらとも微動だにしない。
観衆は、物音一つ立ててはならぬと息を殺し、一瞬たりとも見逃すまいと瞬きを惜しんだ。
白の剣先が、つい、と落ちる。
「面!!」
それを合図に、赤の竹刀が閃光の如き面打ちを繰り出した。
直後、三本の赤旗が振り上げられる。
「一本!! それまで!」
礼を終え場外に出て面を外した二人の剣士。
一方は壮年の男。頭に巻いた手ぬぐいを外せば、短く刈り上げた白髪混じりの短髪が現れる。
こちらが赤。先程の仕合の勝者だ。
だが、その顔に勝利の喜びは無く、額の汗もそのままに仕合った相手をじっと見据えている。
「小野田師範、見事な面打ちでした」
「塚原、相手はお前の知り合いだと言ったな?」
「そうですが、何か?」
「一体何者だ?」
「何者だも何も、同級生ですよ。年は三つ上ですけど」
「……少し疲れた。休憩してくる」
道場の反対側では、敗れた白の剣士が面を外し終えたところだった。頭に巻いた手ぬぐいを外せば、豊かな黒髪がふわりと音を立てて舞い降りる。
敗者となった白。二十代前半の女。その顔に敗北の無念さは無い。
「惜しかったですね」
「惜しいことあらへんよ。二本連取されての完敗や」
白の剣士は、二度三度と手櫛で髪の流れを整えたあと、にこりと笑った。
氏名 三宮 葵
年齢 二十三歳
性別 女
職業 大学生
「いままでどんなに誘っても、師範がいらっしゃる日には道場に近寄らなかったのに」
一体どんな心境の変化が、と続く。
「たまたまやさかい」
葵はヒラヒラと手を振って、相手の思惑が外れであると主張した。
「何があった! 早苗オネーサンに言ってみなさい!」
師範が去って自主練習に移った早々、葵と早苗は道場を抜け出していた。
葵と共にいるのは、塚原早苗という三つ年下の同級生。
彼女は近隣にある道場の娘で、幼い頃から剣の道を歩んできた剣術娘だ。
葵が仕合っていた小野田という剣士は、彼女の道場の師範だ。
葵の腕前を知る早苗は、小野田との仕合を実現させるべく、あの手この手で道場に誘っていたのだが、葵が道場に顔を出すのは、決まって小野田が訪れない日だった。
「失恋でもしたか?」
「そっちはそれ以前の問題や」
道場の娘として育った早苗は、年上の葵に対しても姉貴風を吹かせる。葵は彼女の強引で男勝りな性格を嫌いではない。
早苗は大学で葵と知り合って以来、ずっと世話を焼き続けている。男っ気もなく、年中ミリタリースタイルを貫く、そんな葵は、剣術一筋で、オシャレもカラオケも知らずに生きてきた早苗にとって他人ではなかった。
早苗は高校時代に“女子デビュー”した。その後は文武両道ではなく、文武遊の三つを極めんとして、日夜修行に励んでいる。
当面の目標は、葵にミニワンピを着せることだ。
早苗は他人の気持ちを汲み取れない女ではない。葵が変調をきたしていることは分かっていた。ただ、それが何なのかが分からずに地団駄を踏んでいるところだ。
「大丈夫やって。何にもあらへんよ」
「いままでは師範に会うのを避けてたじゃない」
「避けてへんよ」
「避けてた」
無言のまま二人の視線が交錯する。
「ウチと仕合をさせるんが目的やったんか?」
「仕合をさせたかったのは認めるけど、目的はその先よ」
早苗は視線を外し、上空を流れる雲を見上げた。
「葵の本気を見てみたかったのよ。私との練習でも、全力だけど本気じゃない。本気だけど全力じゃない。そんな感じだもの」
早苗の言葉には悔しさが滲んでいた。それは葵に対するものではなく、自身の未熟さに対してのものだ。
「小野田師範クラスでも本気にさせられなかったとなると……」
「何を言うてんねん。ウチは手も足も出せんと、二本連取されて負けたんやで?」
「打ち込まないどころか、竹刀を振ることもなく、ね」
「あーー」
「師範は打たされていた」
唐突に振り向いた早苗の視線を、葵は動じることなく受け止める。
「可愛げがないなぁ、せめて視線を逸らすぐらいしてよ」
「そらぁ、すんまへんなぁ」
葵は、にこりと笑った。
その力の無い笑顔を見る度に、早苗の悔しさは増していった。
葵はすべてを曝け出してはくれない。それは、暗に早苗が何の力にもなれないと示している。
早苗は、心を開いて貰えないことよりも、力になれない自分の未熟と無力とに悔しさを覚えていた。
「葵も明日あたりに出発するんでしょ?」
早苗は話題を変える。自身の悔しさに押し潰されないために。
「へ?」
「ほら、地震があったじゃない」
地震が発生したのは、葵が東青山の惣谷池にいたときだ。震源地は三重沖、震度は五強と発表されている。
大災害と呼ぶほどの規模ではなかったのだが、大自然の驚異は少なからぬ爪痕を残していった。
建築物の倒壊、断線による停電、二次災害として発生した火災、断水による消火活動の遅れ。死傷者はゼロではなく、多くの人が住み慣れた家を離れた生活を余儀なくされている。
被災地では、炊き出し、援助物資の仕分けや配送、清掃などの作業を行う人手を必要としている。
「そっか、葵は行かないんだ」
「なんや、行きたなさそうやな?」
「“就職に有利だから”行きなさいって」
「そらきっついわぁ」
「うん。正直きつい」
「まぁえぇやんけ、言いたいように言わしたったらえぇねん」
でも、と言い掛けた早苗の言葉は、葵の立ち上がる動作によって出番を失う。
「誰にどう言われようと、どう思われようとも、自分が自身の信念に基いて選択した行動やったら、卑屈になんかなる必要ないねん。けど、それは間違いを認めへんことやない」
早苗が見上げた葵の背中は、凛として広い。
「えぇことしたら、どっかで報われんねん。因果応報っちゅうのんは、悪事に対してだけやない」
「お地蔵さんは善いことも悪いことも見てるってことね」
早苗は頭の後ろで組んだ手を、うん、と頭上へ伸ばした。
「まいったなぁ。葵を元気付けようと思ってたのに、気付けば私が元気付けられてるんだもの」
早苗は「かなわへんわー」と両手を広げておどけてみせる。
両親が関東出身である早苗が関西弁を使うのは、葵に対する敬意の表れで、照れ隠しだ。
「葵の力になりたかったのになぁ。私ってダメねぇ」
「そないなことあらへん」
「気休めなんかいらない」
肩越しに掛けられた声に、早苗は顔を伏せる。
「気休めやあらへんて。ウチの悩みは、人生という長い道を端から見守ってくれはる早苗オネーサン地蔵のおかげで解決したんやで?」
「え? いつ?」
早苗は伏せたばかりの顔を上げる。
そうして、眼前に浮かぶ澱みの無い瞳に吸い込まれてしまった。
「たったいま、やで」
葵は、にっと白い歯を見せて笑った。
作品名:拝み屋 葵 【弐】 ― 余暇見聞録 ― 作家名:村崎右近