拝み屋 葵 【弐】 ― 余暇見聞録 ―
* * *
葵は道場には戻らず、すぐに着替えて早苗の練習が終わるのを待っていた。道場では、休憩から戻った小野田師範の指導の下、部員たちが汗を流している。
部員ではない葵が大学の剣道部道場への出入りを許されているのは、何も深い理由があるわけではない。
最初はただの出稽古だった。さらに遡れば、弓道部で的張りをさせて欲しいと頼み込んでいたところに、たまたま早苗が訪れ、余計な一言『剣“術”やってはるんや?』と声を掛けてしまったことが発端となっている。
紆余曲折を経て、現在の葵は剣道部と弓道部、そして合気道部と薙刀部に出稽古を許されている。いづれについても“段”を持っていない葵が、経験者として歓迎されている。勿論、その影ではのっぴきならない力が影響をしているのだが、言及するのは野暮というものだ。
「ウチもまだまだやなぁ」
葵は早苗との会話を思い出していた。
早苗に向けて発していた言葉は、途中からは自身に言い聞かせるものになっていた。
誰かに間違っていると言われることが怖くて、過ちを突き付けられることを恐れて、自ら破門を願い出ることで逃げ出した。
卑屈になることも、臆することもない。胸を張って正面から否定されればよい。結果は同じでも導かれる未来が違う。なぜならば、それは開始の合図なのだから。そこを通過しなければ、何も始まりはしない。どこにも続くことがない。
人はそれを試練と呼び、向き合って乗り越えることで成長してゆくのだ。
「人っちゅうもんは、他人の目を通して自分を見るもんや」
その言葉は、惣谷池での自分の行動が誰に恥じるものでもなかったという確信に至ったという証だ。
陰陽の道がそれを許さぬというのであれば、そんな道は外れてやろうと葵は思った。胸を張って堂々と踏み外してやる、と。
「にゃー」
「にゃーやあらへん」
葵の前に白と黒のブチ猫がひょっこりと現れた。成熟しきったその体躯は、猫としては大きい部類に入る。
「こないなところで何してん? ウチとはもう無関係なはずやんか。あー、お師匠はんは犬派やったからなぁ。追い出されたんか?」
葵は冗談交じりに話し掛けたが、返ってきたのは「にゃー」という変わらぬ鳴き声だけだった。
「いや、にゃーやあらへんて」
「にゃー」
「そか……、もう何言うてるんか分からへんねや」
「にゃー」
猫は、ただ葵を見上げていた。
* * *
「てっきり葵は行くもんだと思ってたけど」
部の練習を終えて道場から出てきた早苗は、シャワーで汗を流したことを示す湯気を連れ立っていた。
「年頃の娘さんがノーメイクで出歩いたらアカンわ」
「そっくりそのまま返す。この際だから言わせて貰うけど、葵はそんな格好を止めてオシャレすれば、絶対に男の方から言い寄ってくるんだから。だいたい、何の努力もしないで恋がしたいだなんて――」
葵は目を閉じて耳を塞ぐ。
「聞こえへん、なんも聞こえへん」
「知ってる? 葵の写真は、一枚二百円で売られてるのよ」
「なんやてー!?」
「剣道袴姿の写真は、なんと一枚三百円」
「肖像権の侵害やんか!!」
「しっかり聞こえてるし。でもまぁ、元気になったみたいね」
「ところで、どちらさんが買って行かはるんやろか?」
葵は恐る恐る訊ねる。
「何? 興味あるの?」
「まぁ、一応」
「駅前にあるケーキ屋の新作が、今日発売なのよね〜」
説明するまでもないが、『奢れ』ということだ。
「よっしゃ、商談成立や」
「剣道部と合気道部、それと薙刀部の、一回生の女のコたちよ」
「聞こえへん、なんも聞こえへん」
早苗のあとに道場から出てきた数名の女学生が、葵の姿を見つけて小走りに駆け寄る。
「あの、三宮先輩。次はいつ道場にいらっしゃいますか?」
「聞こえへん、なんも聞こえへん」
「先輩?」
「葵、明日は朝六時出発だから」
「へ?」
「『へ?』じゃない。災害ボランティア。遅れずに来るのよ」
早苗は、先に行っている、と言い残して葵を置き去りにする。
「わぁ、三宮先輩も参加されるんですか? 三日間宜しくお願いしますね!」
「この試練はきっついわぁ」
葵は遠ざかって行く早苗の背中を見送る。
「にゃー」
「あら猫ちゃん、どこから迷い込んだのかな?」
「かわいいー」
葵は、剣道部の部員たちの注意が猫へと移った隙に、そっとその場を離れた。
* * *
「にゃー」
白と黒の猫は、大学の正門で葵を待っていた。八百年以上を生きた化け猫には、人の手をすり抜けて先回りすることなど容易いことだ。
葵は、ふぅ、と短く息を吐いて肩を落とす。
「おかげさんで助かったで。おおきに」
葵はそれだけを言うと、猫に構わず歩き始め、猫は「にゃー」とひと鳴きして葵に追従した。
しばらく歩いて、葵はその歩みを止める。
「ちょい待ち。ウチに関係なく喋れるんやないんか?」
「その通りである」
「なんや、しんみりして損したわ。ほんで、何の用やねん」
「吾輩に用があるのは葵ではないのか?」
再び歩き出したその足取りは、先程よりも確かに軽い。
「いつからそないにお節介になったんや?」
「生憎、吾輩は記憶を喪失しておるのである」
駅前に差し掛かり、横断歩道の向こうにパフェを頬張る早苗の姿が見えた。
信号が青に変わる。
不意に、紅毛碧眼の少女が葵を追い抜いて行く。
「どんな嫌がらせやねん」
言葉とは裏腹に、その顔には笑みが浮かんでいる。
紅毛碧眼の少女は、早苗と手を振って挨拶を交わし、そのまま早苗と同じテーブルに座った。
その一部始終を、葵は呆然と銀幕の中の出来事であるかのように眺めていた。
「友が待っておるぞ、行かぬのか?」
猫はもう、にゃー、とは鳴かない。
「ウチは近づいたらアカンのやないんか?」
「これは不可抗力である。完全に消し去るには深く関わりすぎておった故、相似した人物と入れ替える必要があったのである。それがたまたま近しい人物であっただけのこと。故に、これは正真の不可抗力である」
「そか。早苗やったら、まぁえぇわ」
「斯様な先約が入っておるのならば、吾輩は日を改めようと思うのであるが、取り急ぐべき用件は無いであろうか?」
「せやったら、お師匠はんに伝えてや」
「うむ」
「近いうちに怒鳴り込んだるて」
「心得た」
「ウチは、ただの“三宮 葵”でもなければ“陰陽師”でもないねん」
―― "拝み屋 葵"なんや
葵は、早くも点滅を始めた信号を、軽やかな足取りで渡った。
― 拝み屋 葵 了 ―
葵は道場には戻らず、すぐに着替えて早苗の練習が終わるのを待っていた。道場では、休憩から戻った小野田師範の指導の下、部員たちが汗を流している。
部員ではない葵が大学の剣道部道場への出入りを許されているのは、何も深い理由があるわけではない。
最初はただの出稽古だった。さらに遡れば、弓道部で的張りをさせて欲しいと頼み込んでいたところに、たまたま早苗が訪れ、余計な一言『剣“術”やってはるんや?』と声を掛けてしまったことが発端となっている。
紆余曲折を経て、現在の葵は剣道部と弓道部、そして合気道部と薙刀部に出稽古を許されている。いづれについても“段”を持っていない葵が、経験者として歓迎されている。勿論、その影ではのっぴきならない力が影響をしているのだが、言及するのは野暮というものだ。
「ウチもまだまだやなぁ」
葵は早苗との会話を思い出していた。
早苗に向けて発していた言葉は、途中からは自身に言い聞かせるものになっていた。
誰かに間違っていると言われることが怖くて、過ちを突き付けられることを恐れて、自ら破門を願い出ることで逃げ出した。
卑屈になることも、臆することもない。胸を張って正面から否定されればよい。結果は同じでも導かれる未来が違う。なぜならば、それは開始の合図なのだから。そこを通過しなければ、何も始まりはしない。どこにも続くことがない。
人はそれを試練と呼び、向き合って乗り越えることで成長してゆくのだ。
「人っちゅうもんは、他人の目を通して自分を見るもんや」
その言葉は、惣谷池での自分の行動が誰に恥じるものでもなかったという確信に至ったという証だ。
陰陽の道がそれを許さぬというのであれば、そんな道は外れてやろうと葵は思った。胸を張って堂々と踏み外してやる、と。
「にゃー」
「にゃーやあらへん」
葵の前に白と黒のブチ猫がひょっこりと現れた。成熟しきったその体躯は、猫としては大きい部類に入る。
「こないなところで何してん? ウチとはもう無関係なはずやんか。あー、お師匠はんは犬派やったからなぁ。追い出されたんか?」
葵は冗談交じりに話し掛けたが、返ってきたのは「にゃー」という変わらぬ鳴き声だけだった。
「いや、にゃーやあらへんて」
「にゃー」
「そか……、もう何言うてるんか分からへんねや」
「にゃー」
猫は、ただ葵を見上げていた。
* * *
「てっきり葵は行くもんだと思ってたけど」
部の練習を終えて道場から出てきた早苗は、シャワーで汗を流したことを示す湯気を連れ立っていた。
「年頃の娘さんがノーメイクで出歩いたらアカンわ」
「そっくりそのまま返す。この際だから言わせて貰うけど、葵はそんな格好を止めてオシャレすれば、絶対に男の方から言い寄ってくるんだから。だいたい、何の努力もしないで恋がしたいだなんて――」
葵は目を閉じて耳を塞ぐ。
「聞こえへん、なんも聞こえへん」
「知ってる? 葵の写真は、一枚二百円で売られてるのよ」
「なんやてー!?」
「剣道袴姿の写真は、なんと一枚三百円」
「肖像権の侵害やんか!!」
「しっかり聞こえてるし。でもまぁ、元気になったみたいね」
「ところで、どちらさんが買って行かはるんやろか?」
葵は恐る恐る訊ねる。
「何? 興味あるの?」
「まぁ、一応」
「駅前にあるケーキ屋の新作が、今日発売なのよね〜」
説明するまでもないが、『奢れ』ということだ。
「よっしゃ、商談成立や」
「剣道部と合気道部、それと薙刀部の、一回生の女のコたちよ」
「聞こえへん、なんも聞こえへん」
早苗のあとに道場から出てきた数名の女学生が、葵の姿を見つけて小走りに駆け寄る。
「あの、三宮先輩。次はいつ道場にいらっしゃいますか?」
「聞こえへん、なんも聞こえへん」
「先輩?」
「葵、明日は朝六時出発だから」
「へ?」
「『へ?』じゃない。災害ボランティア。遅れずに来るのよ」
早苗は、先に行っている、と言い残して葵を置き去りにする。
「わぁ、三宮先輩も参加されるんですか? 三日間宜しくお願いしますね!」
「この試練はきっついわぁ」
葵は遠ざかって行く早苗の背中を見送る。
「にゃー」
「あら猫ちゃん、どこから迷い込んだのかな?」
「かわいいー」
葵は、剣道部の部員たちの注意が猫へと移った隙に、そっとその場を離れた。
* * *
「にゃー」
白と黒の猫は、大学の正門で葵を待っていた。八百年以上を生きた化け猫には、人の手をすり抜けて先回りすることなど容易いことだ。
葵は、ふぅ、と短く息を吐いて肩を落とす。
「おかげさんで助かったで。おおきに」
葵はそれだけを言うと、猫に構わず歩き始め、猫は「にゃー」とひと鳴きして葵に追従した。
しばらく歩いて、葵はその歩みを止める。
「ちょい待ち。ウチに関係なく喋れるんやないんか?」
「その通りである」
「なんや、しんみりして損したわ。ほんで、何の用やねん」
「吾輩に用があるのは葵ではないのか?」
再び歩き出したその足取りは、先程よりも確かに軽い。
「いつからそないにお節介になったんや?」
「生憎、吾輩は記憶を喪失しておるのである」
駅前に差し掛かり、横断歩道の向こうにパフェを頬張る早苗の姿が見えた。
信号が青に変わる。
不意に、紅毛碧眼の少女が葵を追い抜いて行く。
「どんな嫌がらせやねん」
言葉とは裏腹に、その顔には笑みが浮かんでいる。
紅毛碧眼の少女は、早苗と手を振って挨拶を交わし、そのまま早苗と同じテーブルに座った。
その一部始終を、葵は呆然と銀幕の中の出来事であるかのように眺めていた。
「友が待っておるぞ、行かぬのか?」
猫はもう、にゃー、とは鳴かない。
「ウチは近づいたらアカンのやないんか?」
「これは不可抗力である。完全に消し去るには深く関わりすぎておった故、相似した人物と入れ替える必要があったのである。それがたまたま近しい人物であっただけのこと。故に、これは正真の不可抗力である」
「そか。早苗やったら、まぁえぇわ」
「斯様な先約が入っておるのならば、吾輩は日を改めようと思うのであるが、取り急ぐべき用件は無いであろうか?」
「せやったら、お師匠はんに伝えてや」
「うむ」
「近いうちに怒鳴り込んだるて」
「心得た」
「ウチは、ただの“三宮 葵”でもなければ“陰陽師”でもないねん」
―― "拝み屋 葵"なんや
葵は、早くも点滅を始めた信号を、軽やかな足取りで渡った。
― 拝み屋 葵 了 ―
作品名:拝み屋 葵 【弐】 ― 余暇見聞録 ― 作家名:村崎右近