拝み屋 葵 【弐】 ― 余暇見聞録 ―
「暇な人がいるものね、と思った。せっかく買ったけど私の口には合わなくて、美味しく食べてくれる人にあげようと思った。だから、ご褒美よ」
「どうりで美味しいはずやで」
「次はアオイの番よ。私の外見から日本人じゃないと判断したところまでは誰だって分かるから、その先よ」
サラは待ちきれないとばかりに前のめりになる。
「そないに難しいことやあらへん。英語圏の人が“シュークリーム”を“シュー”と呼ばへんことは前のページで説明済みや」
「聞き慣れない日本語が混じっていたけど、何となく分かるわ」
「さらに言うとやな、相手がサラだけにさらに言うんやで?」
「なんだかアオイの話は疲れるわ」
「あんたさんの名前、スペルはS・A・R・A・H。これを“サラ”と読むんはフランス語やさかい。英語やと“セ”になるねん。日本語やとサラなんやけどな」
「驚いた」
「為五郎やな?」
サラは開いた口が塞がらないといった様子で、葵の足元から頭までを眺めた。
「お節介なだけかと思ったら、目端も利くみたいね」
「ウチはおバカさんやで」
葵は、にっと白い歯を見せて笑った。
「ほんで、日本語がお上手なフランス人のサラはんは、こないなところで何してはりますのん?」
「アオイと同じよ。評判のシューが今日までだって聞いて来たのよ。無駄足だったけど、アオイに会えたから良しとするわ」
おどけてみせる葵につられて、サラの表情も緩む。
「嬉しいこと言うてくれるやないの」
言葉通り、葵は嬉しかった。
このサラという少女は、笑っているときとそれ以外との感情の落差が激しかった。つまらなさそうに、物憂げに、不満そうに、立ち振る舞いは余所余所しく、他人との間に壁を置く。
身に纏った空気、瞳の奥のくすみ、ここではないどこかを探して彷徨う視線。
心を満たすための何かを求めては、それに幻滅して。
幻滅することで、目指すものを、欲するものを忘れぬよう、自身に刻み付けている。
この少女に笑顔が絶えぬ日々が訪れるように、と葵は願った。
「私ね、パティシエールになりたいの」
サラは唐突に話し出した。その口調は重く、表情は暗い。
パティシエールとは、フランス語で菓子製造人を意味する名詞の女性形だ。男性形であるパティシエという名称は、一度は耳にしたことがあるだろう。
フランスでは女性が菓子の製造に従事することは少なく、製造は男性、販売は女性という意識が強い。その背景には、華やかに見えるパティシエという職業の実態を知っているということがある。
パティシエは、美的センスと技術を必要とするのは勿論のこと、大量の砂糖やマーガリンを粉と混ぜ合わせるといった力仕事、グラム単位での計量や、デコレーションなどの神経を使う細かい作業、それらの作業を一日中繰り返すという長時間に及ぶ重労働をこなす体力が必要な職業なのだ。
肉体労働系の職業だが、フランス社会全体が甘党であるため、パティシエの社会的地位は高い。
「反対されちゃったから、母親のいる日本に来たの。でも……」
日本では、新聞配達などの一部の例外を除いて、十四歳の年少者を働かせることは出来ない。
「十四歳いうたら、中学生やんか」
葵は感嘆の声を上げる。相手を賞賛する意味での驚きだ。
「大学なら卒業してきたわ」
フランスには飛び級制度がある。その代わりに小学生から留年制度がある。大学はある程度(定員などの問題を除き)自由に入学できるが、進級・卒業における難度は高い。
「とんでもないことをさらっと言いなはる。サラだけに」
「父親に話したの、将来は同じ店で働きたいって。そうしたら、『サラが大学を卒業したら、個人で小さなレストランを開業しよう』って言ってくれたの。だから勉強して飛び級して……」
「手のひらを返されたっちゅうわけか」
「父親は、私に給仕をやらせるつもりだったのよ。私はデザートを作りたかった。父親に反対されてから、母親がいる日本の言葉を勉強して、覚えて、それで日本にやってきたら、『日本では、十四歳はコレージュ(中学校)に通わないといけない』って」
海外で大学を卒業した十四歳が日本に移住してきた場合、日本における義務教育期間にあたるため、中学校に通わなければならないことは“一部の”多くの人が知っているだろう。
「その歳で大卒やったら、頭脳労働分野に進んで欲しいと思うわな」
「私はパティシエールになりたいのよ!」
JR阪和線の電車が、ガタガタと音を立てて高架を走る。風が長池の水面を揺らし、流れ行く雲を歪ませた。
陽も傾き始め、平日であれば帰宅する学生たちの姿が見え始める時間帯に差し掛かる。
「個人の邸宅で出来ることには、限界がある」
サラは葵が口にしようとした言葉を先回りして制する。
「十八歳にならないと調理専門学校にも行けない。せっかく日本に来たのに、三年以上も何もできないなんて。三年もあれば父親を説得できたかも知れない」
重い空気が渦を巻いて、サラを地中へ飲み込もうとする。
その胸に自己嫌悪と焦燥とを抱くサラは、成すすべなく沈み込んでいくばかりだ。
「諦めるんか?」
葵は前置きなどしない。物事はいつだって二択でしかないことを知っている。
是か、非か。
やるか、やらないか。
最初に決めるのはそこだ。
続けるのか続けないのかを悩むとき、確認すべきなのは最初に決めたそこだけだ。
「諦めるわけないでしょ!」
サラはキッと葵を睨みつける。
葵はその視線を受け止める。そうされるのが分かっていたとばかりの表情で。
「せやろな、やる気がないんやったら、食べ歩いて味を調べたりはせぇへんよなぁ?」
「……っ!」
「よいよい。泣き言やったらおねーさんが聞いたるさかいに」
葵は、にっと白い歯を見せて笑った。
「泣き言なんて言わないんだから!」
「せやけど、いままでかて勉強ばかりやったろうし、日本に来たばかりでそーいうこと話せる友達がおらへんのとちゃう?」
「確かにそうだけど、堂々と正面切って言われるのは不愉快だわ。誤解のないように言っておくけど、できないんじゃなくて作ってないのよ。程度が低すぎて話にならないわ」
サラは、ぷい、とそっぽを向いた。
「ししし。それが十四歳っちゅうモンやねんて」
「子供扱いしないでくれる?」
前に流れ出ていた髪を肩の後ろへと払う仕草に、葵はぷっと吹き出す。
「何よ?」
「サラちゃんは男泣かせになるでぇ」
「私は製菓にしか興味ないわ」
「せやから余計にそうなってまうねんて」
楽しくてしょうがないといった笑顔を見せる葵に対し、その意味が分からないサラは肩をすくめて見せた。
「どうりで美味しいはずやで」
「次はアオイの番よ。私の外見から日本人じゃないと判断したところまでは誰だって分かるから、その先よ」
サラは待ちきれないとばかりに前のめりになる。
「そないに難しいことやあらへん。英語圏の人が“シュークリーム”を“シュー”と呼ばへんことは前のページで説明済みや」
「聞き慣れない日本語が混じっていたけど、何となく分かるわ」
「さらに言うとやな、相手がサラだけにさらに言うんやで?」
「なんだかアオイの話は疲れるわ」
「あんたさんの名前、スペルはS・A・R・A・H。これを“サラ”と読むんはフランス語やさかい。英語やと“セ”になるねん。日本語やとサラなんやけどな」
「驚いた」
「為五郎やな?」
サラは開いた口が塞がらないといった様子で、葵の足元から頭までを眺めた。
「お節介なだけかと思ったら、目端も利くみたいね」
「ウチはおバカさんやで」
葵は、にっと白い歯を見せて笑った。
「ほんで、日本語がお上手なフランス人のサラはんは、こないなところで何してはりますのん?」
「アオイと同じよ。評判のシューが今日までだって聞いて来たのよ。無駄足だったけど、アオイに会えたから良しとするわ」
おどけてみせる葵につられて、サラの表情も緩む。
「嬉しいこと言うてくれるやないの」
言葉通り、葵は嬉しかった。
このサラという少女は、笑っているときとそれ以外との感情の落差が激しかった。つまらなさそうに、物憂げに、不満そうに、立ち振る舞いは余所余所しく、他人との間に壁を置く。
身に纏った空気、瞳の奥のくすみ、ここではないどこかを探して彷徨う視線。
心を満たすための何かを求めては、それに幻滅して。
幻滅することで、目指すものを、欲するものを忘れぬよう、自身に刻み付けている。
この少女に笑顔が絶えぬ日々が訪れるように、と葵は願った。
「私ね、パティシエールになりたいの」
サラは唐突に話し出した。その口調は重く、表情は暗い。
パティシエールとは、フランス語で菓子製造人を意味する名詞の女性形だ。男性形であるパティシエという名称は、一度は耳にしたことがあるだろう。
フランスでは女性が菓子の製造に従事することは少なく、製造は男性、販売は女性という意識が強い。その背景には、華やかに見えるパティシエという職業の実態を知っているということがある。
パティシエは、美的センスと技術を必要とするのは勿論のこと、大量の砂糖やマーガリンを粉と混ぜ合わせるといった力仕事、グラム単位での計量や、デコレーションなどの神経を使う細かい作業、それらの作業を一日中繰り返すという長時間に及ぶ重労働をこなす体力が必要な職業なのだ。
肉体労働系の職業だが、フランス社会全体が甘党であるため、パティシエの社会的地位は高い。
「反対されちゃったから、母親のいる日本に来たの。でも……」
日本では、新聞配達などの一部の例外を除いて、十四歳の年少者を働かせることは出来ない。
「十四歳いうたら、中学生やんか」
葵は感嘆の声を上げる。相手を賞賛する意味での驚きだ。
「大学なら卒業してきたわ」
フランスには飛び級制度がある。その代わりに小学生から留年制度がある。大学はある程度(定員などの問題を除き)自由に入学できるが、進級・卒業における難度は高い。
「とんでもないことをさらっと言いなはる。サラだけに」
「父親に話したの、将来は同じ店で働きたいって。そうしたら、『サラが大学を卒業したら、個人で小さなレストランを開業しよう』って言ってくれたの。だから勉強して飛び級して……」
「手のひらを返されたっちゅうわけか」
「父親は、私に給仕をやらせるつもりだったのよ。私はデザートを作りたかった。父親に反対されてから、母親がいる日本の言葉を勉強して、覚えて、それで日本にやってきたら、『日本では、十四歳はコレージュ(中学校)に通わないといけない』って」
海外で大学を卒業した十四歳が日本に移住してきた場合、日本における義務教育期間にあたるため、中学校に通わなければならないことは“一部の”多くの人が知っているだろう。
「その歳で大卒やったら、頭脳労働分野に進んで欲しいと思うわな」
「私はパティシエールになりたいのよ!」
JR阪和線の電車が、ガタガタと音を立てて高架を走る。風が長池の水面を揺らし、流れ行く雲を歪ませた。
陽も傾き始め、平日であれば帰宅する学生たちの姿が見え始める時間帯に差し掛かる。
「個人の邸宅で出来ることには、限界がある」
サラは葵が口にしようとした言葉を先回りして制する。
「十八歳にならないと調理専門学校にも行けない。せっかく日本に来たのに、三年以上も何もできないなんて。三年もあれば父親を説得できたかも知れない」
重い空気が渦を巻いて、サラを地中へ飲み込もうとする。
その胸に自己嫌悪と焦燥とを抱くサラは、成すすべなく沈み込んでいくばかりだ。
「諦めるんか?」
葵は前置きなどしない。物事はいつだって二択でしかないことを知っている。
是か、非か。
やるか、やらないか。
最初に決めるのはそこだ。
続けるのか続けないのかを悩むとき、確認すべきなのは最初に決めたそこだけだ。
「諦めるわけないでしょ!」
サラはキッと葵を睨みつける。
葵はその視線を受け止める。そうされるのが分かっていたとばかりの表情で。
「せやろな、やる気がないんやったら、食べ歩いて味を調べたりはせぇへんよなぁ?」
「……っ!」
「よいよい。泣き言やったらおねーさんが聞いたるさかいに」
葵は、にっと白い歯を見せて笑った。
「泣き言なんて言わないんだから!」
「せやけど、いままでかて勉強ばかりやったろうし、日本に来たばかりでそーいうこと話せる友達がおらへんのとちゃう?」
「確かにそうだけど、堂々と正面切って言われるのは不愉快だわ。誤解のないように言っておくけど、できないんじゃなくて作ってないのよ。程度が低すぎて話にならないわ」
サラは、ぷい、とそっぽを向いた。
「ししし。それが十四歳っちゅうモンやねんて」
「子供扱いしないでくれる?」
前に流れ出ていた髪を肩の後ろへと払う仕草に、葵はぷっと吹き出す。
「何よ?」
「サラちゃんは男泣かせになるでぇ」
「私は製菓にしか興味ないわ」
「せやから余計にそうなってまうねんて」
楽しくてしょうがないといった笑顔を見せる葵に対し、その意味が分からないサラは肩をすくめて見せた。
作品名:拝み屋 葵 【弐】 ― 余暇見聞録 ― 作家名:村崎右近