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拝み屋 葵 【弐】 ― 余暇見聞録 ―

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 *  *  *

 和歌山を流れる紀ノ川。河口から流れに逆らって進めば、街道が交差する古くから交通の要所、地蔵の辻に到着する。その名の通り、交差点付近には重さ三トンもの地蔵尊が祀られている。
 紀ノ川の河川敷には、整備された公園が広がる。せせらぎ公園という名が付けられているが、こちらはせせらぎなどは聞こえない。

 公園に降り立った葵は、そこから四百メートルほど西にある紀の国大橋の下へと向かう。そして、一つのダンボールハウスの前で仁王立ちする。
「お師匠はん、そこにいてはるんですやろ?」
「葵か、少し遅れたな」
 荘厳な響きを持った声がダンボールハウスの中から響く様は、なんともシュールである。
「文句やったら猫に言うてください。始発も動いてへん時間に呼び出されたら、猫電に乗ってくるしかあらしまへん」
「その猫の姿が見えないようだが」
「駅前の自販機の下で暖を取る言うてましたわ。『寒くはないが、自然と暖かい場所に引き寄せられてしまうのである』らしーです」
「難儀な猫よの」
「お師匠はんこそ、なかなかに難儀な場所に住んではるようで」

 葵は今日初めて師匠に会う。
 起きている間は“式(式神)”を通して体術などの実技を学び、寝ている間は、夢幻世界“賽の河原”において学術などの知識・精神修行を行ってきたのである。
 葵が弱冠二十三にして、剣術を始めとする多様な武術と、多国籍な言語、神学、歴史にまで及ぶ広い知識を習得しているのは、そうした“一日が二十四時間以上であった”という過酷な修行時代があってのことだ。
 葵がなぜこのような人生を送ることになったのかについては、いづれ語る時が訪れるだろう。

「名が売れるとな、それを妬む輩がいるのだ」
 奥義を盗まんとして近づく者、弟子を送り込んでくる者、腕試しと称して手合いを申し入れてくる者など、様々な思惑を抱いた来訪者が後を絶たない日々に嫌気が差し、身を隠すことで安全と安息を得ていたのだ。
「人気者は大変や」
「私を引き摺り出すために、葵を陥れ破門に追いやったのだ」
 弟子の不祥事は師の不祥事。破門者を出した者は、その教育方法を長老衆に吟味される。その際に問題が発覚すれば、問題の大きさに見合った処分が下される。
「それだけならまだよいが、自然の流れを捻じ曲げて私用に使うなど、許されることではない」
「……私用に使用」
「何か言ったか?」
「いえ、なんでもありまへん」
 河口へと向かって吹き抜ける風は冷たく、暦の上ではすぐそこに迫っているはずの春は、まだまだ遠い空の彼方で眠っているのだろう。

「黒幕に辿り着くまでに、予想以上の時間を要してしまったが」
 空が仄かに白み始めた。東に見える山の端は、赤く赤く輝いて、この街に朝の訪れを報せる。もどかしいほどにゆっくりと訪れる日の出は、嫌が応にも葵に人生の転機を予感させた。
 根拠も確証もない。しかし、確信している。この戦いが終わったとき、確実に何かが変わるのだと。変わってしまうのだと。

「いまからそいつらをいてこましに行かはるんですやろ?」
 この世界で唯一、自分の出生の秘密を知っているであろう人物。この者が知らないのであれば、他には誰も知り得る者はいないであろう秘密。
 隠していたのではない。話さなかったのではない。話さずにいてくれたのだ。葵はそう思っている。そしてそれは真実でもあった。
 ダンボールハウスの一画がゆらゆらと揺れ動き、太陽の光が差し込むのと同時に、その奥から一人の男が姿を現す。
「だからこそ、お前をここに呼んだのだ」
 悠然と立つその姿は、想像通りでも予想外でもなかった。
 葵は、初めて目の当たりにした師匠の姿を、それがあたりまえなのだとして受け入れた。

「なぉーーーん」
 白と黒の毛で体表を覆った化け猫が、葵の脇に降り立つ。
「そろそろ頃合いであろう。準備は万端に整っておろうか?」

 同じ道を修めながら違う答えに辿り着いた者。
 それらを力づくで排除することに対しての迷いはない。

「覚悟なら、疾うの昔にできてるによってな」
 葵は、にっと白い歯を見せて笑った。


          ― 賽の河原 了 ―