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拝み屋 葵 【弐】 ― 余暇見聞録 ―

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 *  *  *

 三十畳はあろうかという大きな純和風の部屋で、サーモンピンクの和服を身を包んだ葵は、呆れ顔で立ち尽していた。

「ウチはここには入られへんはずですやんか?」
「そう堅いことを言うな」
 簾の向こうに鎮座する人影が、荘厳な声を響かせる。
「お師匠はん、多分ですけどそれ、ウチのセリフですわ」
 着物の裾を払い正座した葵は、簾の奥の人影と正対する。
「まぁええですわ。ウチかてお師匠はんに言いたいことがありましてん」
「では、先に話をさせてもらうが、構わぬかな?」
「構いまへん」
「うむ。先日の地震だが」
 葵の眉が一瞬だけの歪みを見せる。
「作為的なものであることが判明した」
「あの規模の地震が?」
「龍脈の乱れによって、近いうちに大きな地震が起こるのは分かっていた。だがそれは、明日は雨が降ると分かっていても、何時何分何秒に降り始めるのかまでは分からぬように、正確な発生日時までは掴めぬものだ」
「それで?」
「あの倒木も人為的なものであった」
「……っ!」
「地震による倒木に見せかけて、あの夫婦に倒れ掛かるように“呪(しゅ)”が掛けられておった。呪を掛けた者は、あの日あの時あの瞬間に地震が起こることを知っていたことになる。それほど正確に予測できる力量があるのならば、是非にと思い所在を調べさせたのだが」
「お師匠はん、もーよろしーですわ」
 一瞬にして張り詰めた空気は、三十畳の空間にひび割れを生じさせる。
「ウチという“餌”に、“獲物”が喰らい付かはったんですやろ?」
 静寂が辺りを支配する。
 その間にも、卵の殻のようにひび割れた空間は音もなく剥がれ落ち続け、覆い隠されていた“何もない場所”が姿を現していった。
「平たく言えば、そういうことだ」
「ほんで、ウチはどうしたらええですか?」
「呪によって引き起こされた厄災ならば、呪を以って祓うことに何に気後れも必要とせぬ。よって、お前の破門を解く」
 葵を破門したのは、カラクリに気付いていない振りをして獲物を油断させるためのことだ。関係した一般人の記憶を消すことはあっても、葵が破門される謂れはなかったのだ。

「思いのままにせよ」
 一瞬の沈黙の後に発せられたその言葉は、何よりも気高く、何よりも威厳に溢れていた。
「ほな、そーさせてもらいますわ」
 葵は、にっと白い歯を見せて笑った。

 *  *  *

「あ、起きた?」
「ん、よう寝たわ。いまどの辺りや?」
「もうすぐ着く頃よ」
 葵は目玉だけを動かして窓の外を見た。
 すでに太陽は沈み、夜の帳の中に灯された明かりだけが、後方へと流れ去る。
「久しぶりにええ夢を見たわ」
「豪華リゾートにでも行った?」
 葵は再び目玉だけを動かして、今度は窓とは反対側、隣に座る早苗を求めた。
「賽の河原に行ってきたんや」
「死に掛けてるじゃないの」

 賽の河原とは、この世とあの世との境目にあるとされる三途の川の河原。『一つ積んでは――』のフレーズで有名な地蔵和算の舞台となる場所だ。賽の河原という地名は日本各地に実在している。
 元来、“賽”とは神に捧げる物の意である。この場合の神が示しているのは、道祖神・土神、つまりは賽の神であり、地蔵菩薩である。よって、賽の河原とは“地蔵菩薩が訪れる河原”のように訳することもできる。
 三途の意味するところが、地獄道(火途)・餓鬼道(血途)・畜生道(刀途)の三つを併せたものであるため、賽の河原に使われている“賽”の文字は地獄を表すように思われがちだが、実はそうではないのだ。

 ただし、葵が口にした賽の河原とは、前述のものではない。
 葵の師匠が連絡用に使用している夢幻空間、現世と夢との狭間にあるその空間を、鬼(師匠)が幼子(葵)を虐めるという意味合いで賽の河原と呼んでいるものだ。決して、自身と地蔵菩薩を重ね合わせたものではない。

「ウチには、誰にも言われへんことがぎょーさんあるねん。それでも、友達でいたってくれるか?」
「あたりまえよ。私にだって、他人に言えない秘密ぐらいあるわ」
 葵と早苗が向かい合ってはにかみあうのとほぼ同時に、バスは大学に到着した。

「なぉーーーん」
 マイクロバスから荷物を降ろしている最中、猫の鳴き声が夜の闇より響いてきた。
「やだ、気持ち悪い」
 部員の一人が、不気味な鳴き声に対して不安げな声を漏らす。
「ほな、ウチはこれで失礼しますによって」
「葵」
 早苗は、立ち去ろうとする葵を呼び止めたものの、続く言葉を探して言い淀み、身体半分だけ振り返っていた葵は、にっと白い歯を見せて笑った。
「おつかれさんやで」


 そして時は流れ、冬が過ぎて春が訪れた。


 *  *  *

 まだ薄暗い早朝五時、始発も動いていない時間帯であるのに、駅の構内から歩み出てくる人影が一つ。雪こそ降っていないが、吐く息は白い。
 駅前を少し離れると、街灯さえも点いていない暗い市街地に差し掛かる。まだ目を覚ましていないその街の中にあって、煌々と光を発する一軒の店舗の前で、ふー、と息を吐いて足を止めた人影は、一度だけ躊躇した後に店舗内へと足を踏み入れた。

「いらっしゃいませー」
 店内に来客を告げるチャイムが鳴り響き、店員の声がそれに追従する。
「ふーっ、まだ朝は冷えますなぁ」


 氏名 三宮 葵
 年齢 二十三歳
 性別 女
 職業 拝み屋

 彼女は現代に生きる陰陽師。
 祈祷祭祀なんでもござれ。オカルティックな依頼があれば、日本全国津津浦浦どこであろうと訪問するのが彼女の流儀だ。正確には彼女の師匠の流儀であり、彼女はそれに従うだけだ。

 彼女が訪れたのは、和歌山県和歌山市。かつて八代将軍徳川吉宗の紀州藩があった場所として有名である。奈良県との県境付近にある高野山には、真言宗の開祖として有名な弘法大師空海が現在も眠るとされている。

「まったくお師匠はんにもかなわんなぁ」
 葵は、コンビニエンスストアの品揃えを何とは無しに眺め、店内をぐるりと周る。
「酢だこさん太郎がないなんてありえへん」
 店内を一周した葵は、ペットボトルのお茶だけを手にレジへと向かった。
「いらっしゃいませ」
 店員が禿げかかった頭を下げて葵をレジに迎える。
 小男で小太りな四十半ばの男。絵に描いたような不幸のオーラを身に纏っているものの、弱々しくもそれに屈せぬ輝きを内に秘める不思議な男だった。
 真に辛さを知る者だけが持つことができる、周囲への感謝と労わり。自身すらもそれと気付かぬままであるが故に、それは向かい合った者の中にすんなりと染み込んでゆく。

 葵は、品揃えに不満はあるが、しばらくはこのコンビニエンスストアを利用することに決め、この男は自分以上の“拝み屋”になるかもしれない、などと考えて、思わず顔を綻ばせた。

「ってこれ何やねん!?」
「あー、それは……」
 葵が指さしたのは、水色をした中華まん。
 おおよそ食べ物には似つかわしくない鮮やか過ぎる色彩に、葵は大きく目を見開いてその正体を探ろうと試みる。

「それはトロピカルまんです」
「とろぴかるまんー!?」