遺伝子組み換え少年
吉岡はやや前傾の姿勢で、充血した目で鍛々谷を見つめている。頬骨が折れたように痛んでいたが、やはり顔には出さない。ヒトツバシに殴りかかろうとすれば身体で止めようと決めていた吉岡の手は、握り拳となっていた。吉岡が聞こえないよう小さく呼吸をしてふっと背筋を伸ばすと、乾燥した手で鍛々谷は吉岡の肩を押し、部屋の奥側に押し込めソファ代わりに細いベッドに深く座った。
「それで用は、って言えば、あんたまた怒るかな。分かってるよ。殴ろうとしないで。でも仕方ないじゃない。祐丹、死んじゃったんだから」
飄々と、安っぽく怯えながらヒトツバシは言った。
「今回の行動で、幾らの人間に疑心を生んだか分かるか。ガキがガキに入れ込みやがって。本当に面倒で、勝手なことをしてくれた。なあ」
鍛々谷は、ため息のように長く言葉を吐き出す。捲っていた袖を左、右と戻した。ため息には鍛々谷の表情からは抜け落ちてしまっている怒りが残留していて、中空を回転し停滞している。
「怒鳴り込めるのなんてあんたくらいだよ。そりゃ、あんた管理職だから、仕事は増えただろうけどね。刃を出す度胸もない奴ばっかりだ」
「上司の機嫌取りに来たとでも思っているのか」
「この世も、遅かれ早かれさ。準備をしたって、対応可能な事項と不可能な事項とがあるだろうよ。それこそ何を怒ることがあるんだ。自分より頭の悪い奴の命令は、特に眺めている方向が同じなら聞けないね。目的地まで歩調を合わせて歩く必要はない。それに、他人が一日二日長生きしても、どうだっていいじゃないか。むしろ、あいつらを長生きさせてやっているのが、俺達だろうよ」
「編集前の四日分の映像と、一次資料のすべてを貰う事は当然として、何故大阪に居たか聞かせて貰おうか」
返答を無視して言う。
「さあ、虫の知らせかな。知らない」
「お前が殺したんじゃないだろうな」
「祐丹?まさか。デメリットしかないよ。俺だって、あいつの生活を覗くのは楽しみだったんだ。実験対象の監視というやつでね。小千科学のPCからは、常時監視映像を閲覧可能にしてね。プライバシーもへったくれもなくね。本当、監視されていたであろうことは分かっているのに何にも言わないで、可愛らしいんだよ。そこが。吉岡の来る前、さっきも覗いてたんだけど。勿論、我執で選抜するわけもないし」
「......祐丹......ね」
「なんだよ。実験体A:bC89-02112-66なんて呼び難いじゃない。正式なら更に長い。本名名乗るわけにもいかないし、本人は名札には興味湧かないみたいだもん」
「全体信じられんな。報告書の分も含め、説明に矛盾が多過ぎる。対応もラショナルでない」
「祐丹はね、監視程度されていないわけはない、と思っているんだよ。これは、選定会議の後の方に書いてたかな。監視してたよって言わなくても、自分の価値が分かってるからね。力の本質を理解しているから。それは当然とはいっても、監視されているのに気付かなかった自分が悪いとも思っているんだよ。あいつは自分に合理的だから。バカだろそれ」
「俺は、何故七割しか成功率のないと説明していた死体実践を、CтCM薬の複製に成功もしていないのに、許可なく行ったのかと聞いているんだ」
「祐丹は――彼は、もともとCтCMに適性があったし、選定会議でも彼に決まっていた。今更、何を不思議がる。エネルギーを身体に通して、投薬をして、遺伝子を組み替えて、固めて、結局すべて上手く回ったんだからいいじゃないか」
「そのタイミングはあちらが決める事で、俺が決める事だ。――帰りが早かったが、それだけの用事がここであったということだろう」
太い声で鍛々谷が言う。ヒトツバシの口は滑らかで、長い期間打ち込んだ実験を成功させた興奮が続いているのか、やはり普段より一段子供らしい声が弾んでいる。鍛々谷は飄々と答えるヒトツバシとは対照的に、表情をかえないまま、火を噴く動物のような話し方をしていた。吉岡は不思議と楽な気持ちで、殺伐とした我の強い会話を聞いている。鍛々谷は吉岡の尋ねたい内容の一部を話していたが、吉岡は正論に動じないヒトツバシに安心していた。
「特にはないさ。ただ離れようと思っただけ。巻き添えは食いたくないしね。一つ目に送った文書――実験概要の方ね。それも、そっちはうちのトラックを他国の間諜が覗いてたことと、"四式"が周囲にいたことも見ているはずだから、いいんだよ。今回監視に使ってたスタッフはそちらの人なんだから、分かっているはず。うちの人間も、居るには居たけどね」
「その点は問題でないことも分かっているだろうが。祐丹、と呼ぶか。あれが生まれることを本当に望んでいたのは、こっちじゃ極僅かだ」
「こっちって、どっちだ。上柵。それに、俺も、望んでなかったんだけどな」
ヒトツバシは、はぐらかすような調子で言った。二人は吉岡が小千科学に入った二年前から長い仲であり、二人にしか分からない会話が、吉岡には察せぬ行間に展開されているのかも知れなかった。
机の上の三つ首のノートパソコンを、ヒトツバシが背目で叩くと、既に暗くなっていた画面が再度明るくなり、三種類の画像を映した。
三枚といえども、同じアングルの画像である。左は明確に写真として撮られていて、右は白黒で荒く抽象的に撮られている。中央はその二つを重ね合せた画像になっている。平穏な昼の海以外には何も映っていない、俯瞰の画像であった。
「『みはる』と『みなみ』か」
「あの衛星の開発には俺達も一枚噛んでいるから、役得だよ」
「......糞。いねえ。移動か。予想通りじゃねえか。糞」
鍛々谷は真顔のままに言う。
『みはる』と『みなみ』は、定点監視型の人工衛星であり、日本宇宙開発機構が一昨年に完成させた、世界でも類を見ない二機の実験衛星である。『みはる』には超望遠の光学カメラ。『みなみ』には合成開口レーダーが搭載され、それぞれ別タイプの画像が撮影可能となっている。監視衛星は、カメラやレーダーを搭載する性質上地球の近くを飛ばねばならないが、人工衛星が地球の回転と同速度となる静止軌道は監視の不可能な地球から遠くにあり、定点を監視し続けると言う事は不可能であったが、それを可能するための雛形として『みはる』と『みなみ』の二機が実験として打ち上げられ、一年ほどで監視機器が故障したと発表させ、極秘の用途に使用している。
日本国上空に位置させ続ける制御機構に比重を置いたせいで、撮影装置は軽量化された一台ずつであり内装も軽く、撮影が不可になるリスクは打ち上げ前から話されていたことであったから、疑う者はいなかった。むしろ、定点衛星という機構そのものの成功を疑問視する声の方が大きく、信じている者はその理論の成功に沸き立った。
無論、故障で海原を撮っているのではない。海の波高と波長、表面を撮っているのである。その差で、その上に居る者を視ているのである。対象の姿は、画像には映らない。そこに居ると宣言して頂いて、波高波長に表面と、合成開口レーダーの画像を参照にして、移動があればレンズを追わせる。『みはる』と『みなみ』は、元々その一人が波の上に居ると確認する目的のみで開発された人工衛星であった。