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遺伝子組み換え少年

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 後から、「対立国等の監視網が強く、安全に伝えることが困難であった」と文書上であっても頭を下げれば、相手方は文書を真実として納得すればいいのだから、それで済む話である。「一次資料交戦中炎上により紛失」という説明であっても、問題に上がることはない。あえて説明を削り、唐突に、実験の内容を書き始め"質疑があれば千田加奈が受ける"と結んでいては、資本を融通する側に挑発をしているようなものである。
 解せない部分は、仕事に就いての事である。
 その領分を越えて、個人的な想いを疑問にしてはいけないとは考えつつ、他の事も思う。
 三つ首のノートパソコンにバックライトが点る。緑色で角が丸く、ディスプレイがキーボードの幅の一枚と、その両脇に丸い接合部品で、大きさの同じものが反転可能な形で一面ずつ配置されている。二面半分の面積が安楽椅子の背で隠され、殆ど最上部だけが光ってみえた。ノートパソコンの角度の付いたバックライトに照らされて、扉から入る光に、イヤホンを耳に挿している影が斜めに映る。その影で初めて、所長がこの狭い部屋の内にいるものと確信した。
 鳴りやすい扉をノックしてから、通った声で伺いを立てると、安楽椅子から生えた手がぴらぴらと室内へ招いた。
 狭い部屋に入ったところで足を止めると、吉岡を招いた手が、まだ動いている。さらに三歩進んで、安楽椅子の右側に、嵌め殺しの窓からの明かりを浴びながら、吉岡は距離を測るように立った。
 足は胡坐で、黒革の安楽椅子にぺたりと細い上体を預けて、そういう形のクッションみたいに、ヒトツバシは座していた。視線と低い頭部が合わず、耳のイヤホンを抜いたことは分かったが、顔は見えない。心臓が痛み、背筋が伸びる。
 制服としての白衣は不必要、というのがこの男の考えであった。だから、小千科学研究所には制服はなく、スーツを着る人間も殆どいない。それは所長の意志に加えて、入荷資源とスペースに限度のある地下に研究所があるから、無駄を省く一つでもある。吉岡は目にしたことはないが、民間の研究所に於いて私服はそう珍しくないらしい。しかし、私服で上司の前に立つということに、吉岡はさほど慣れてはいなかったし、当のヒトツバシは、小さな身体の膝までを覆う白衣を、身にまとっている。
 誰も知らない、理の怪物。
 凹凸のない道を一途に進んできたからこそ、その存在の特異さは分かる。十年、二十年、掛かると言われていた理論、実現不可と考えられていた空論を、雌鶏が卵を産むように実現させる頭脳と嗅覚、そして実践に対する迷いの無さは、神童として育てられた自分を一般人として尚、怪物と呼ぶ他にない。その上で、表の記録に現れたことはなく、小千科学に集められた実績と経験と先見のある優秀な研究者は、誰も彼の昔を知らず、誰もがその才能に平伏していた。
「おはようございます。所長」
 正午は過ぎていたが、一礼して吉岡は儀礼的に堅く言った。
 ヒトツバシの眼前のモニター三面は、日本語に英語、プログラム言語に右書きの中東辺りで使われていそうな言語、更に数字が混ざった文字の敷き詰められた、幾つかのウインドウに占領されている。ヒトツバシ個人で使用している暗号であろうか、吉岡はその解法を知らない。
「記録は見て、渡したか?」
 ヒトツバシは言った。子供の声域である。しかし、常より一段、弾んだ声でもあった。
「――A:bC89-02112-66に関する、第一次起床後の記録も大阪から送って頂いたものを拝見しました。配布分のデータはファイルとして送付いたしましたが、何分、電子化された資料を嫌がる方も数人おられますから、その方々に渡すまでに時間を掛けています。映像は勝手ながら、配布分をさらに幾分か私個人として編集させて貰いました。私共の観点からならば許容の範囲でしょうが、政治家の観点からは大きく逸脱しているという判断です。尚、一連の映像は一般職員PCからは再生不可能として、特研管からの映像の要請は、一旦映像記録をすべて渡せということでしたので、編集映像も止めて待機して頂いています」
 一旦声を出すと、吉岡ははきはきと喋る。
「お前がそう決めたなら、それでいいよ」
「はい」
「何か思ったか?」
 吉岡はまた答えを迷った。抽象的な質問に対する答えは、ヒトツバシの行動の意図への理解度と直結すると思っている。
「思う事は、多過ぎます。それ以上は、分かりません」
「分からないの?」
「良いことであるか、悪いことであるか、判断が付かないのです。私の天秤に乗るものは多種で、程の良い調整は難しく。ただ私は、今回の計画は良い事であるとして推し進める所存です」
 吉岡は不器用に言い、口を噤む。質問は指摘にも確かに属して、やはりこれ以上に口を開けば失礼であるように感じられた。くすりとヒトツバシが笑った気がした。
「そりゃ、考えないってわけにも、いかないからな」
 静かな階層に乱れた音がして、吉岡だけが部屋の中から壁の向こうを見た。
 革靴がタイルカーペットを踏む遠慮のない足音が聞こえる。階段を上っている。この階層に入る事の可能な人間、それも乱暴に歩き入る人間ともなると考える必要もなく限られているが、義務として部屋の内側で開いている扉の前に吉岡が立つと、大股で歩いていた男は無言で立ち止った。
 濃紺のダブルのスーツが乱れ、その背から蒸気が湧いている。四十は過ぎているであろう、皺の刻まれた男である。堅い表情に怒りを隠さず、しかしその怒りの量に対しての歪みは少なく、押し殺す気も当り散らす気もない方向の決まった怒りが、体内に充満し蒸気として見えているようだった。髪はオールバックに撫でつけられ、整髪量に仕込まれた柑橘類の臭いが届き、ノータイで、ストライプの入っているスーツの前は開いて襟が捲れ、袖をシャツごと肘まで捲っていたが、シャツの裾は対となるスラックスに収まっていた。
 常にスーツにネクタイを着こなしている分に、服装の乱れが異常さを醸し出していた。予想通りの相手だった。
「面談は予定されていませんが、御用でしょうか」
 特殊自然科学研究センターの鍛々谷上柵は、一瞥もせずに裏拳を振った。バチンと肉を打つ音が響く。頬を打たれた吉岡は後ずさると、膝の裏にベッドの角がハマり、かくんと倒れ込み後頭部を浅く壁に打ち付けた。顔を押さえて横になると、上司の布団であるから、吉岡は逆再生をしたように立ち上がった。
「制止も実行出来ねえくせに、人の前に立つんじゃねえ!」
 鍛々谷は言った。荒い呼吸を二、三度してから安楽椅子の背を見、
「電話が通じなかったから、来させてもらったよ」
 存外、穏やかに言葉を吐き出す。
「やあ、おはよう。吉岡と、鍛々谷副局長」
 鍛々谷上柵に向かい、安楽椅子をくるりと反転させて、深く腰を掛けたままヒトツバシは言う。
 漏れ入る灯りとモニターのバックライトだけの照明で、茶色の猫毛と色素の薄い瞳が黒っぽく映っている。
「切れるなよ」
 ヒトツバシは、吉岡を手で制して言う。
「それくらいの事で切れるな。覚悟して立ったんだろ。な」
 冷えた表情で、鍛々谷を見つめたまま、ヒトツバシの手が言った。
作品名:遺伝子組み換え少年 作家名:樋口幼