遺伝子組み換え少年
「......中国辺りにガキ落とせねえかな。おい」
「あれは、楔だよ。それは出来ない」
「――」
「それに今日こそが、俺達のやってきたことが試される日だろう?」
からかう調子で、顎先を撫でられているような気味の悪さのある言葉だった。少なくとも、とび抜けた才能のある人間の言っていい言葉ではない。
「あのクズを雇ったのもその為か?くだらねえ!それで、馬鹿は馬鹿を外出させたわけか。子守を付けて。その場に居たら絞め殺してるぞこの野郎。馬鹿に馬鹿を乗算しても頭良くはならないということだな。なあ吉岡!」
痰唾を吐き捨てるように鍛々谷上柵は言った。
吉岡は神妙な表情は作らず、真っ直ぐな目のままで様子を窺っている。
「藁木さんの事?彼はパートタイムで働いてくれるって言ったから、他に大口径の銃使いこなせるのいないし、呼んだだけだよ?」
くすくす笑ってヒトツバシは言った。
怪訝な顔をして鍛々谷はヒトツバシを見る。鍛々谷が怪訝な表情を作ったのは部屋に入って初めてで、鍛々谷の内を焦がしていた温度が一気に冷めてしまったようだった。
「気持ち悪いなお前。くだらねえことは考えるなよ。俺はもう帰る」
「そう。迷惑かけたね」
言う途中から互いに背を向けて、鍛々谷は足早に部屋を後にした。
階段を下りる足音が聞こえて、すぐに消えた。単に所長と話をするためだけに訪れる人間ではないことは承知していても、申し訳の立たない事をしたと部下として思う。
「本当に怒っているんなら、一昨日のうちに来ればいいんだ。お前の良さではあるとは思うが、あんまり副局長を信用するなよ」
吉岡の心中を察したかのように、しかし嘲ってヒトツバシは言った。
「吉岡、お前後で第一管理に向かえ。佐東に伝えて欲しいことが結構ある」
ヒトツバシが言う。重要事は口伝というのは、小千科学の習慣であったが、当事者間で伝えるものであり、吉岡が取り次ぐことはなく、職員の誰かが取り次いで伝えられたということも聞いたことがなかった。
「畏まりました」
肯定以外に言葉はなかった。
7
鍛々谷上柵は階段を下りながら、スラックスに入れたシャツを整え、襟を正す。
階段は最上階からの半分は広く、上れる人数を限定するため、途中から細い鉄骨階段となっている。鉄骨階段を下りると、天井の高い廊下があり、監視カメラや区画入出数等のデータから侵入者の有無・研究員の仕事量・仕事量に対しての貢献の割合諸々をチェックし、外部の協力者からの情報を保管・利用する管理階層となっていて、その職員の部屋も入っている。この階層の職員は八割が女性であり、職員部屋は原則仕事をする階層に、大まかには個室・相部屋と割り振られている。仕事場は複数の事情で一部ガラス張りになって、フロアの北である鉄骨階段横には「許可なき者進入禁止・罰則有り」と掘られた石が嵌め込まれている。さらに下階へは別の階段か、西中央に位置しているエスカレーター、南東・南西に位置している職員用のエレベーターか、荷揚げ用のエレベーターを使うことになり、鍛々谷は二階下の六階の6A出入り口から入り、西中央のエスカレーターを上がったから、その往路を戻ろうとしていた。
西中央のエスカレーターへ早歩きで向かっていると、その先の丸い角から疫病神が歩いていた。鍛々谷は常に周囲を警戒しながら歩く。疫病神は角から現れながら、歩きながら鍛々谷を視認していた。足音で勘付かれたのか、しかし、幅の狭くない廊下でしっかりと鍛々谷を捉えている。最上階に繋がるしかない管理階層を歩き回る職員などそうはいないと、互いに認識している。疫病神は鍛々谷と歳近く無愛想な皺が刻まれているが、高い身長に銅板を巻いたような厚い褐色の筋肉をして、短い髪が濡れて乱れていた。二十代の身体の張りを有している。顔立ちは日本人で、タイは付けず薄暗い色のスーツを着ている。
角に沿って疫病神が廊下の端を歩き近付くたびに、身体が圧される感覚がある。軟質の固形のような、彼の踏み潰した死骸の数がそのまま取り憑いているような、彼の潜り抜けた修羅場の空気が周囲に固定されているような、そういう粘りつく空気を、疫病神は己の周囲に停滞させている。それはもしかしたら鍛々谷であるから感じられたのかもしれない。歩く疫病神は無感情であった。無表情であり、無感情だった。廊下の端を歩くのは、正面背後から襲い難くするための方法の一つであり、足音を立てぬ歩法は染み付いた歩き方で、最低限の生活の警戒しか感じられない。
三時間前には、大阪で実験に参加していた男である。何故、ここに居るのか。この男が大阪に滞留していないという仮定は、一切していなかった。
藁木正六であった。
褐色長身の体躯に伝説を担ぐ疫病神が、あまりにも意識の抜けた顔で廊下を歩いてくる。それでいて、人には未だ感じたことのない圧力を発している。鍛々谷は噂には聞かない彼の生態の一つを目の当たりにしていた。
鍛々谷は苛立ち、喉を鳴らすように声を出してから男の歩く側の廊下の壁を握り拳で叩いた。壁といえども、仕事場に繋がる一部のガラス部分であったが、拳も割れずガラスも割れなかった。厚い防弾仕様であることを覚えていたのか忘れていたのか、それでも乱暴に響く音はして、私服で、大急ぎに仕事をこなしている女性職員が、何事かと鍛々谷らを見ている。カメラのレンズと同じ目をしている。鍛々谷が壁際へ移動している間に、藁木正六は歩く速度を緩めてふいの攻撃を避けられるだけの間を作っている。
「今日は、変な人間によく会う」
藁木正六は枯れた声で言った。声を発することが億劫であるかのような小声で、鍛々谷が風景であるかのように、声と同じく乾ききった目で藁木正六は、高い身長から悠然とさほど変わらぬ身長の鍛々谷を見下ろした。
「奇遇だな。俺もだ」
植物性ボディソープの優しい匂いがする。鼻のいい鍛々谷であったから感じられるほどの、三十分経たずに消えてしまう匂いで、その後には無臭となるだろう。
「たしか、どこかで殺し屋をしている人だったかな。今は感情を切っているけれど、今は同時に機嫌が悪いんだ。退いてくれないかな」
「特研管の鍛々谷だ。いいよ。横を通ればいい」
四十を過ぎて喧嘩好きの中学生みたいなことをしていると思いながら、鍛々谷は一定の距離を保ったまま、ガラスの壁に右肘で凭れて言う。
藁木がそのままに、自分の横を通る事はないと見越して言っている。大人といえども男、それも争いを生業とする男が目の前の喧嘩から、逃がしてやると言われて逃げるわけにはいかない。尚、移動時に間合いを保とうとするならば、広いと言えども廊下の幅を考えれば更に不恰好である。思った通りに、藁木は動かなかった。