遺伝子組み換え少年
「そう。この映像は本物じゃないけど、お前に起きたことを端的に表しているんだ。例えば、ヒトデの再生能力が欲しいと思った場合、アオカビからペニシリンを取り出したように、ヒトデの細胞から傷口に細胞分裂を促す要素を取り出してお前に処方しても、どうにもならないんだよ。ヒトデの能力を得るには、ヒトデの遺伝子に産まれ、ヒトデの細胞になるしかない。似た力を得るにしても、細胞の変質は避けられない。細胞の変質はそれを形作るDNAの変質だから。ガン細胞だって、その相互で増殖するもんなんだよ。色々と説明を省いて申し訳ないけど、一応分かり易く説明しているつもりね」
「ニュアンスは、分かっよ」
少年が返す。
「俺が作った"薬"は人の遺伝子を根本から組み替え、変質させ、固定させる。勿論、細胞自体も変質させなければ効果は発現し辛いから、細胞を一新させるということも、同時にさせている。そうして作った遺伝子は、人という形を強固に維持する性質を生みだす。その"薬"を五体潰れたお前に投与した。それで、生き返らせることが可能というよりは、身体の最適な形を維持する性質を利用して、肉と骨だけ残った身体を干しシイタケを水に浸けるみたいに、戻しただけなんだ。脳が腐ったら効果は生まれないけれど、脳の細胞が息絶えていなかったから、潰れてすぐのお前には使えたんだ。つまり例えば、お前はお前のまま、ヒトデになったんだよ」
なるほど、と思い、それは知っている、とも思った。少年を書いたカルテのような書類には[重度破損体に遺伝子組み換え薬投与]と丁寧にも書かれている。君に見せるために書いたというヒトツバシの弁を信じれば、その記述は少年に状況を理解させるために簡略化したものであろう。そして、自身がその薬の効果によって窓のない部屋に入れられているという答えには、少年はとうに辿り付いている。自分は死んだのだ。遺伝子が組み替えられた、それくらいの荒唐無稽がなければ人が生き返ることはなく、荒唐無稽であるほど人と金が掛かり、社会では人と金が掛かるものには、投資に見合う対価が必要とされ、自分はその対価を要求されるのだろう。
指一本も動かす気にならなかった。知っていたはずのことなのに、宣告をされると、目から涙が溢れそうになって、少年は隠すように眩暈に任せて俯せに倒れた。
泣くほどのことでもないのに、涙はいつも流れようとする。やはり涙腺が弱いと少年は思った。硝煙のにおいがまた眠りたくなるほど芳しい。シーツと一緒に撓むレモン色のタオルケットを掴むと、握っていても力が吸収される柔軟剤の嫌な感触しかしなかった。自分の情報を仕入れているのなら、自宅で使っている洗剤くらい薬局で買ってきてくれればいい。さらに力を込めるとタオルケットは、濡れた手でトイレットペーパーを掴んだように、繊維になって解けた。
「あ」
勿体ない。他人の物を勝手に潰してしまった。
「死んだ身体を、別物にして、君に仕立て直したんだ」
ヒトツバシは手でくずになったタオルケットには目を向けず、少年の目を見て、少し優しげな口調になって言った。
「社会的にも、ビルから転落をして死んだことにした。腕力は、鉄を引きちぎれるくらいにはなっている。他もそうだ。目も、耳も、鼻も、足も、腹も、皮膚も、内臓も、強い。君は化物になっている。化物が、化物であることを隠して生きる事なんて出来ない。悪い先輩に絡まれて、恐怖する事を忘れることもあるだろうし、徒競走で手を抜いて鈍足組に入ることを、拒否してしまうこともあるだろう?」
「――」
「それで、いいだろ」
背もたれがきしりと軋んだ。調整に回転するまでもなく、椅子は常に少年の頭を基準に動いている。
「眩暈はするのな」
なるたけはっきり聞こえるよう、低い位置から黒い目で四人を見回して、少年は言った。
「感覚は、基本的にはそのままなんだよ。だから痛みのストレスが頭に溜まって、眠くなる。身体の強さで、痛みも変化するけどね。マスターベーションも可能なはずだよ?後で試してみな。子供作れるかは実践してみないと分からないけどな」
「構わんよ」
「そ」
「ただ、俺は自分がしたくないことは、せんから。お前らがどうなろうと、知らん」
寝転がったまま眉根を寄せぶつりと言い切ると、ヒトツバシは腹を抱えてけらけらと笑った。
机に突っ伏して笑うヒトツバシに、失礼な奴だと思いながらも、顔の作りのいい子供の楽しそうな表情を見ていると、自然と笑みが浮く。千田は薄い笑みを浮かべたまま、樫と多田を見てみると、立ったまま反応をせず二人の会話を眺めていて、「家族付き合いに疲れて夫と姑の会話に立ち入れない三年目の主婦かよ」とでも言うと、滑るだろうけれど個人的で面白いだろうなと少年は思った。長々しく、湧いた意識を吐いて、気持ちがいい。大阪人らしい。自分と共に他人の人生を棚に上げている。
腕が痙攣するように震えていたから、少年は右手親指の第一関節辺りを噛んで止めた。
「そりゃ、構わないよ。そりゃそうだもん」
ヒトツバシは目尻を白い指で拭いながら言った。
「うん」
「祐丹」
眉を上げて、顔で少年は聞き返した。
「祐丹。俺が付けた。第二の人生とはとても思えないだろうけど、新しい名は必要だろうから、勝手に呼ぶよ」
手元の書類を一度も少年の前に向けることなく、机に置いたまま、ヒトツバシはここまで話した。
「よろしくお願いします。祐丹君」
小柄の千田が、深くお辞儀をして、これ以上なく白々しいタイミングで言った。数秒の間があって、少年は声にならない横隔膜の笑いをシーツに擦り付けるように、口の裂けた笑みで悶えた。少年のひとしきり笑った後に、ヒトツバシは、後は任せたと千田に言い付けて席を立った。この男はダベりにだけ来たのかと思いつつ、少年は手を振ると、樫が扉を開けたところで立ち止まり、
「長い付き合いになるだろうから、よろしくね」
言って、開いた扉から出て行った。挙げた手を持て余しながら、革靴が廊下を叩く音が聞こえ、階段を下るヒトツバシを見送っていた。不思議な感覚だった。それも、デジャブに感じた。
室内には祐丹と千田だけが残って、今までとは異なった圧迫感を感じていないものとしながら祐丹が寝転がったままでいると、千田がその寝台に腰を掛けた。
「それでは、行きましょうか」
吐息を掛けられているような気がする。
「どこに?」
祐丹が返す。
「葬式ですよ」
千田は常に微笑んでいた。
5
くすんだ星空の、けらけらとした赤い光源二つを見ていた。
夜の海の真ん中の、深い闇だった。灯台も見えず、漁船の灯りも通り過ぎない。遠くのホタルイカの群れが緑色に光り、他には天だけが光源である。右を向けば右が分からず、左を向けば左が分からなくなる、深海のような海上の闇の中で、色の付いた人型の影は、波に漂っていた。
足から尻から背が、すべて波に触れて、波上に色の付いた人影はいる。それは波に浮いているのではなく、波形に背を乗せて寝転がっていた。小雨が降っていた。常より多少高い波に、うっとりと寝転んで、視線の先となる天を見ている。
深い闇の中、人影の瞳が幻のように赤と金に、極稀に輝く。
天を見る目に小雨が入る。