遺伝子組み換え少年
「ヒトツバシという」
ぼうっと部屋を眺めている少年に、丈の合った白衣を着た猫毛の子供は、悠々と少年側の湯呑に茶を注ぎながら言った。透明の緑茶から立つ暖かい湯気が、鼻先から入り胃まで撫でる。ベッドに座っている少年の臍辺りに、ヒトツバシの頭はあった。手足が長く、身体に角がない。右手には包帯が巻かれ、ヒトツバシは茶革の腕時計をその手首に巻いていて、毛の生えていない柔らかい指は、煮れば食べられそうな子供の白みがあった。
茶を注ぐ行動一つだけでヒトツバシの表情はころころとかわり、「おはよう」「元気か」といった類のその場凌ぎの挨拶を幾つか喋り、少年は頭を?きながら難しい顔で、適当に応じた。その背後にまた背の低い若い女が立ち、閉まっている扉の前に男が二人立っている。密室であった。
部屋には暴力の行使された痕が、明確に残っている。咥内には金物の味が固く、尻の周辺でシーツに手を伝わせると、銃弾が擦れて破れ焦げた痕と貫通した銃弾があって、薬莢と破片は片付けられていたが、床や壁に銃弾が埋まっている事は分かる。ヒトツバシの頭を越えて、床に蜘蛛の巣のような大きな銃痕が一つ見えた。大きな男。あれは大人だったと少年は思った。身体に突き刺さった熱の槍と、踵。鉄。しかし、身体に痛みはない。
「小千科学研究所、所長付きの、千田加奈と申します」
ヒトツバシの背後の若い女は深々と礼をして、少年は目を背ける。
やつれて病的な人相をしている研究員二人が閉じられた扉の前から近付いて、千田の挨拶に続いた。立場と職は、説明されずともその立ち位置から想像可能な範囲であったが、それらを二人は少年に言い聞かせるように挨拶に混ぜた。
自己紹介に混ざった説明によると、この部屋は国立の病院の公表されていない一棟の内であり、自分を含めた研究員も税金で働いていて、本部は東京にあり、今は緊急で間貸しして貰っているところだと言う。つまりは国家が関わっているということだが、特に情報を咀嚼もせず、気を遣って頂いてすまないなと感謝を示したら、樫陽一と多田日助の二人は哀苦綯交ぜた表情になり、躊躇いながら閉じられた扉の前に戻った。人がいいんだよ、とヒトツバシが笑って、少年も納得して頭を?いた。二人は扉の前で感情を抑えていても、眼前で表情を崩しても、同じ顔をしているように見えた。
他人の言葉すべてを噛み締めるわけもなく、少年は「の」の字の湯呑に手を伸ばして茶を飲む。
湯気の立つ緑茶を飲むと、甘い味と茶葉の香りが口腔内で広がった。
「うめえ!」
素直に大きな目を見開いて言うと、「そりゃよかった」とヒトツバシは満足そうに笑い、気恥ずかしくなって、少年はそっぽを向く。
「なんだこの野郎」
睨みながら、わざと憎々しげに少年が言う。
「何でもないよ。面白いなって思っただけ」
ヒトツバシがけたけたと可愛らしく笑いながら言うと、
「さよか。よかったねー」
あやすように返しつつ、肩を怒らせて不機嫌そうに、少年はまた茶を啜った。
「よく平気でいられるなと思っているんだよ。何にも持ってなかったのに」
椅子の上で胡坐を掻き、ヒトツバシは腹を立てた風も、怯える風もなく、楽しげに言った。目を背ける。純粋さの正の要素を煮詰めたような表情をして、顔を長くは見つめられない。男女の境目を飛び越えた子供の愛らしさを、女の平均くらいの身長に、奇跡的にヒトツバシは携えていた。顎より下には毛の生えていなさそうな顔をしている。軋む背もたれに背を預けながら胡坐の足首を両手で掴み、片手を外して、ヒトツバシも湯呑に手を伸ばし啜り、間を嫌って少年も喉に茶を通すと、飲み込んだ甘い緑茶が腹を温めて、心地がよかった。茶を啜るときには、少年は口元が緩む。熱い茶はこころを鎮める。この旨い茶は何かの思惑の一部ではないかと警戒しながら、口元を緩ませたまま、急須から透き通った緑の茶を注いだ。
「平気でもないよ。しかし、うめえな。落ち着く」
熱い緑茶を、ちびちびと大量に飲む。少年は大阪弁の発音に、時たま標準語の発音が入った。
「その態度取れるだけでもたいしたものだと思うけどなぁ」
ヒトツバシは微笑混じりに、机の本立てから書類を一枚抜き出して、湯呑を除けて机の上に敷き、細く達筆な字で紙上にみっしりと記述されているそれの続きを、同じ筆跡で書き始める。膝の高さにある書類を覗くと、それは少年のカルテのように見えた。校庭で遊ぶブレザー姿の自分の写真が上体を切り取って貼られており、その下方から二日分程の出来事がマス目を食みながら時刻と共に書き込まれていて、[破損体回収後廃棄トラック車内にてA:bC89-02112-66安定 完成]という記述を0として、そこからの経過時間も時刻の隣に書き込まれていた。一昨日の途中から覚えのない記述があって、今日の分の出来事は、少年自身も覚えている。
ブレザー姿の写真の隣には自分の名前でなく、[A:bC89-02112-66(破損後投与) 祐丹]と記述され、その記述の下から写真の縦の範囲に、身長・体重・年齢・血液型・住所・電話番号・公称の趣味・両親の名前・両親の出身・身体の至る所のサイズから書き込まれ、少年には何を意図するものか分からない計算式らしい文字列もあった。
「君は、死んだよ」
書き終えたボールペンを親指の付け根で回しながら、ヒトツバシが言った。
受け入れていたはずの事でも、宣告されると変な気分になった。
「そう」
「この書類は、君に見せるために書いたようなもんだ。字ならきっと、機械的に伝わると思ってさ。こういう人の話聞かないじゃない。祐丹」
「興味のないことに関心を持てる方がおかしいんよな」
胡坐から足を伸ばして広げ、後ろ手をついた。
何か間の抜けた話をしているような気も、少年はした。
スチール机の最上段の引き出しを開けて、ヒトツバシは電源の点いたまま暗転した、タブレット型のPCを取り出す。机の真ん中で本立てに立て掛け、少年に視聴を促し、ヒトツバシが音量を絞り上げると暗い画面が光を受けて、画面を指で擦ると、暗い背景の右に橙の光で枠取られた立体的な人型の線図が映った。
更に人型を指で擦ると電子音が鳴り、人型の腹部が破裂し、頭がへしゃげて、腕があらぬ方向を向き、足が斜めに裂けた。立体的な人型はチープな演出で各部潰れて、その度に2Dゲームのような電子音が鳴る。橙の縁の黒い帯が矢印で差されて人型の中へ入ってゆき、木の根のような血管が人型に浮き上がったら、白い球体が黒い帯に落され矢印の方向へ向かった。細胞一個を現す図が現れると、核の染色体が増加し赤みを深めて、四種の球体で作られた、回転する二重螺旋構造のDNAの図が人型の左に浮かび上がり、解けて、黒い球体が合わさって別の形に組み上がり、それから人型は破片を集めて収束してゆく。タブレットPCを眺め少年は、腕を伸ばして湯呑を取り、茶で腹が膨れたのか一口啜ると戻した。
人型は破片を集めると同形に戻ったが、人型を描く線の色が、橙から朱へと変わっている。
「例えば、ヒトデの再生能力が欲しいと思ってくれ」
言葉選びに悩んでいそうに、ヒトツバシが眉根を寄せながら言う。
「ヒトデ?」