遺伝子組み換え少年
鍛々谷は、周囲は味方でないと認識、藁木は周囲全てを敵と認識していた。藁木の認識は現実に比べれば明らかに過剰であり、結果は、その過剰さから鍛々谷上柵が無意識に得ている認識の優位性を崩したというだけである。しかし、その認識の優位性を崩そうとした現実感を持つ藁木正六に、それを崩すことに成功した藁木正六に例えようもない凄まじさを感じ、やすやすと優位性を手放した自分との差を思った。
そして、藁木が靴や手に仕込む暗殺器具を想定に入れなかったのは、鍛々谷が間合いに簡単に近付けさせたからである。蹴りの距離で簡単に致命傷を負わせたいのならば、靴先に猛毒を塗った針を仕込んで押し出すように前蹴りをすればいい。強い回し蹴りを急所に食らわせなくても、それで決着が付くし、拷問が望みならば身体の自由を奪うだけの毒にすればいい。殺害するとしても身体の自由を奪えば簡単で、手でも同様である。なのに、間合いに入って、藁木が暗器を所持していないと断定したにしても、暗器を使用・所持している側が藁木正六相手に簡単に間合いに入らせるということは確率としては、高くないものであった。拳銃かナイフは所持しているかもしれないが、暗器は持っていないと、鍛々谷が微動だにしない藁木を見て失敗と感じたように、藁木は鍛々谷を見て感じとったのである。
近寄ることは藁木にとっては一つの賭けでもある。離れて拳銃で撃たれる可能性があるか、近寄って暗器を使用されるか。そして、結果藁木は最遠の蹴りの間合いで、前傾せず攻撃を避けやすい形で止まることにしてから、暗器は持っていないという仮定を選んだのであった。素人ならまだしもハンドガンを使い慣れている相手に、無装備で対し拳銃有りで弾が当たらないという想定は不可能であるから、確率で考えればその選択は間違っていない。藁木正六は周囲全てが敵であると認識した中、先手を打てない状況、相手を殺害不可能な状況で、生命を脅かされない道を確率で選んだ。
しかし、対面して逃げることは難しい、ということもあるけれど、丸い角を出る前から廊下を歩く鍛々谷を視認していたから、広い廊下で拳銃を持ち出せる間合いを作れてしまう可能性のある待ち伏せは不可能としても、その仮定をしているのなら、対面する以前に避けることも可能であったはずである。生命を守るなら、逃げればいい。小千科学の周囲全てを敵と認識しているのに、逃げたくないという小さな意地で、鍛々谷の歩く廊下へ入ったのか。
それは彼が無意識であったことに起因する。藁木正六はブラフとして言葉を使ったが、意識の抜けた無感情の表情は、藁木正六そのものであり、これまでの計算は全て無意識の内に習慣として藁木がしていたものだ。意地よりもっと大きなもの。大いなる意志に従うためには、藁木正六は鉄骨階段を上るまでに、身に降り掛かる運命を避けるという選択をする事は有り得なかった。
そしてやはり鍛々谷上柵にとっては、あれは争いではなかった。戯れに近い。双方手を出さなければ永劫始まらない。藁木に殺しが可能な状況でなく、鍛々谷もそのつもりはない。藁木にとっては、あの間合いに入ることが争いのゴールである。その後攻撃があれば対処をするだろうが、生命を守るという観点であれば、暗器を持たない相手に拳の間合いに入らせることが藁木正六の性能に対する終点であったが、鍛々谷上柵はその争いにはもとより参加していないのである。
そういう事であった。
8
赤い散歩道。
小学生の頃に通った下校路の一つである。三年生であったか四年生であったか、あの記憶の学年であった頃に帰りに立ち寄って遊んでいた。散歩道は石畳の広場に繋がり、石の階段から路地から道路に繋がっている。他にも道路に繋がっている道はあったけれど、大抵その道を使っていた。
長くはない赤い散歩道の途中には正体不明の企業の倉庫か工場の門があって、何度か中に入り立小便をした。高い柵と有刺鉄線三本を、柵の支柱を掴みスニーカーの固さと身軽さで乗り越え、皆で立小便だけして帰る。それ以上の事をする悪さは自分の学年にはなかった。犬のように小便を掛けるだけでその会社を征服した気になって、振り返るとデブのモリがズボンを足首まで下ろし、柵の間から粗末な蛹のようなものを突き出して小便をしていて、皆して腹を抱えて笑った。
いつも遊ぶのは石畳の広場の方で、手打ち野球だったり、鬼ごっこだったり、家に帰った友達はカードゲームを持ってきて遊んでいた。次の学年となると自転車での街を使った鬼ごっこと携帯ゲームが流行ったので、近寄ることの減った場所である。他にはPTAの餅つき企画か何かで使われていた記憶がある。
町に思い出のない場所はない。センチメンタルにはならないが、最近は通っていなかった道だから、否応なしに思い出してしまう。空に描かれる掛け値なしの晴天から、灰色の陽光が降るようだった。
その思い出で呼ばれた名前でないと言う事は、多少の違和感があるが、それ以上にはならなかった。名前は記号でしかない。違和感であれば、苗字が存在しないと言う事の方が妙な感じではあった。初対面の人間に、下の名前で自己紹介するほどフレンドリーな人間ではないのに、それが通常となると思うと、憂鬱で面白かった。それとも、これから会う自己紹介をすべき相手は、誰もが自分の名を知っているのだろうか。
赤い散歩道は黄葉した銀杏の木に挟まれている。銀杏の実の潰れた臭いがしないということでも、気分が良くなる。
「流石ですね」
後方を歩いていた千田加奈が横に並んで、彼女らしい揺れない声で言った。
既に、彼女らしい、と祐丹は思っている。ヒトツバシとは似た方向で、超然とした、可愛らしい顔立ちの女であり、横を向かないよう祐丹の首が緊張している。
「うるせえな」
馬鹿にされているものとして、悪態を付いた。流石と思われそうな事が多過ぎて、どの事であるか実際は分からない。ふふふと千田は品良く笑う。
祐丹が目覚めた部屋は、国立病院の患者には利用されない棟の地下にあった。立派な国立病院の一つの低い棟は、丸ごと小千科学の関西の拠点として利用されているらしい。その駐車場より普通の軽にしか見えない車を皺の深い老父が運転し、自宅のアパートの前で降り、目的地まで歩いている。運転席の背もたれを掴んで話しかけても反応のない老父は、その形の人形みたいなもので、気を遣いもしなかったし、隣席の千田に軽口を叩きながら、祐丹は無言を承知で老父に話しかけていた。
「本当に、尊敬していますよ」
「ええんよ。あんたそんな言い方しやがって。アホらしい」
「突き当りを右に行き、通りを横断しますよ」
「そんくらいは分かっとうや。通り横断してからをお願いします、千田さん。分からんでもないけど、あんま行かんかったところッスから」
照れ笑いを抑えながら、敬語を増やしつつ祐丹は言う。
「別にこんなもん、どうでもいいんですけどね」
頭を掻き、祐丹が言った。
「センチメンタルな気持ちが、でしょうか?」