遺伝子組み換え少年
肌に刺す沈黙がある。一部ガラス張りの職場から廊下を覗いている職員が増えている。一人電話を掛けている職員は内線でヒトツバシにでも伝えているのであろうか。この階層には外敵と認められる人間を、"処理"をする機能も含まれている。所長室に近く、小千科学の中の機密を共有している、脳とも言うべき階層であるから"処理"に迷いはない。一部が防弾のガラス張りとなっているのは、仕事を公明にするためであると同時に、廊下に居る人間――とりわけ鉄骨階段へ向かう人間をカメラと肉眼の両方で確認するためでもあった。自分がいるから"処理"をしないとは鍛々谷は思ってもいないが引く気もなく、藁木は鍛々谷の価値を測ろうと乾いた目を動かす。
鍛々谷が一歩前に出ても、藁木は退かなかった。
微動だにしない。
その意味は動いた鍛々谷には分かり過ぎるほどに感じられた。
一分ほどして、藁木正六の周囲に停滞している空気が、膨張して鍛々谷は圧される。見上げる顔は鬼の面相に豹変していた。
「あんまり邪魔すると切り落とした腕、胃の底まで突っ込んで裂いた指生け花として飾るぞ」
何が切っ掛けになったものでもないと鍛々谷は思う。切っ掛けになる程の事は、藁木正六にとって圧力になる程の事は、何もしていなかった。切っていると言っていた感情のスイッチが入る時間に、偶々当たったのだと鍛々谷は思った。
枯れていた声が水気を得ている。豹変と言うよりも、無感情だった顔に刻まれていた皺の全てが深まり、藁木正六という人間が急激に濃縮されたようで、鍛々谷が資料で幾度も見たことのある藁木正六の顔となっていた。
「ここの庭にでも飾ってくれたらありがたい」
更に前に詰めた鍛々谷上柵の視線を外し、真横を藁木はゆっくりと通って、鉄骨階段を上って行った。
ガラスの向こうから覗いていた職員が、仕事へ戻る。これから始まる仕事の準備に、大忙しだった。一人だけ尚見つめる女性職員に、見るなと手を振ると、慌てて作業に勤しみ始めた。
「......よくも、あの歳まで生きられたな」
鍛々谷は呆れたように呟くと、タイルカーペットの床に唾を吐き捨てた。尻のポケットからハンカチを取り出し、額と首に光る汗を拭く。鍛々谷は南西の職員用のエレベーターを経由して、二階の地下鉄に繋がる出入り口から小千科学研究所を出た。
鍛々谷は藁木正六を止めるために、壁に凭れ掛って止まったのである。
大前提として双方、特に藁木正六は先に手を出せないという共通認識がある。小千科学の八階管理階層で騒動の原因となることは線路を走る電車に投身することと同義であり、その認識はバックボーンのない藁木には顕著に行動として表れていた。
ふいの攻撃を避けられる間合いは、広い廊下の壁際に於いては蹴りの間合いの最遠である。壁際では蹴りは打ち難く、投げれば壁に落とすことも可能であるが攻防を短時間で決めるのは難しい上に立ち投げの距離ではなく、距離を潰せるタックルは鍛々谷の姿勢より素早くは仕掛けられなく、もし仕掛けたとしても時間が掛かる可能性があまりに高く、現状に適当でない。間を詰めながらのパンチは、もとより拳の距離でないのだから続く廊下に下っていけば避けられる。回し蹴りは壁により方向の見当が付き打つまでの動作も多くなってしまうし、前蹴りや睾丸蹴りは油断していない相手に初手に打つ速度と安定性はなく、膝に対しての蹴りも前進を止めた相手には効果が少ない。藁木に限らず、警戒の染み付いている人間はその計算で動く。故に、受けに回るしかない藁木は蹴りの届く間合いで、効かない間合いまで近付いたのである。それより突っ込めば、拳の届く間合いになり、前へ出す蹴りに効果が生まれ、近付くと言う行為が先になり、後の先を取られるリスクと、先に手を出したと断じられるリスクがある。拳に一歩、投げに一歩半足りない、最も安全なその間合いで止まることは分かっていた。
鍛々谷はそして一歩分間合いを潰した際に、微動だにしない藁木に、選択を間違えたと強烈に思った。一歩近付けば拳の距離になる。方向はガラスの壁により多少限定されるが、速度と威力の安定した攻撃が可能になる距離で、目を突ける距離である。その距離で先に手を出すわけにはいかない藁木を挑発したつもりであったが、それは壁に凭れ掛ったところから望むところだったのだ。
鍛々谷の想定と違っていたのは――鍛々谷は、バックボーンのない藁木は鍛々谷が危害を加えるという前提で動いているものだと思っていたが、藁木正六自身はそれに加え、鍛々谷が拳銃以下の懐か袖に隠すことの可能な、距離のある武器を所持しているという前提で動いていたことである。藁木正六は招かれた客人であったが、小千科学研究所に入る際には歯の隙間から内臓まで、武器やカメラ・盗聴器等の索敵機器を所持していないかと調べられたはずである。初めにボディソープのように感じた匂いは、その際に付着したものだと鍛々谷は推測した。しかし、特殊自然科学研究管理センター、肩書きに負けていれど小千科学研究所を管理・監視する立場の副局長である鍛々谷上柵であれば、懐に使い慣れた拳銃――皺の付いた袖に隠せるほどの小さな銃――刃を発射可能なナイフを、所持しているという可能性があった。つまりは、藁木は鍛々谷上柵の事を正確に知っていたという事である。
蹴りの間合いの最遠であるから、武器を取り出す瞬間には間を詰めて手で払うか、半歩詰めて正確に蹴り上げなければならない。しかし、小千科学所長と懇意にしている鍛々谷上柵相手に先手を取ったならば生きて地上へ出られない可能性もあり、例えば懐に手を入れたとしたら、物を出すまで攻撃を仕掛けてはいけない事になる。もし鍛々谷が懐で何かを構えた振りだけをしたならば、攻撃を加えた場合に追い詰められるのは藁木の側であるが、それがもし銃口であった場合には撃たれてしまうのも藁木である。急激に間を詰めずに、その場から後ろ足を動かさない範囲で、手で武器を掴むという選択が必要で、相手の拳の間合いに入るのでは下がられれば自然に距離は詰められないから、鍛々谷から拳の間合いに入ってもらう必要があった。
藁木は鍛々谷を知っていて、誰であったか分からないという態度を取った。これも一種の挑発である。誰か知らないと言ってしまう事で自尊心を擽ると共に相手の情報を得ていないと意識付けた。加えた「退いてくれ」というのは藁木の本心であり、挑発に足す要素でもある。それ自体に効果があったのか、なかったのか、鍛々谷はあの言葉が無くとも自分は一歩を踏み出していたと後に思う。鍛々谷上柵はそういう人間であった。
鍛々谷は望まない内に、藁木の思惑に入っていたことを、微動だにしない藁木を見た途端に感じたのだった。
鍛々谷にとっては挑発するためだけの距離であり、藁木から見れば攻撃をさせるための距離。そして藁木にとっては、攻撃を受けることが可能で武器の使用を抑えることが可能であり、その場合に攻撃を加えることが可能な距離に立っている事を理解したのである。一歩の間合いで、抑えられていたものがすべて藁木から消え、思惑通りに動かされたことに、鍛々谷は情勢の不利を感じざるを得なかった。