ジャッカル21
外を覗くと、男は、焚き火を背にして、岩に腰掛け、川に向かって小声で歌を歌っていた。物悲しい異国の歌だ。八重子は音を立てなかったつもりだが、テントの外に上半身を出した時に、男はふり向いた。薪のはぜる音をすかして気づかれた。これではとても逃げられない。八重子は、数歩の距離を歩くと、男の左隣に腰を下ろした。
「何の歌なのよ」
八重子は大胆なのではなかった。もう破れかぶれだった。
「親をなくした子供の歌だ。世界中のどこにでもある歌だ。どこにでもある歌詞だ。そういう子供がどこにでもいるからだ」
八重子は、あんたもそうだったのね、と危うく言いそうになったが、それは相手の素性をさらに詮索することになり、不快にさせることになりかねないのでやめた。だが自分のことをいうのは、逆に相手を油断させるだろう。
「私も交通遺児だわ」
八重子は川に向かってつぶやいた。実際、八重子が八歳のときに、バックしてきたトラックに父親が轢かれて死んだ。母親は今も元気でスーパーに勤めている。山一つ越えた中津川で、市役所に勤める弟と高校生の妹と、親子三人で暮していた。
「コーツーイヂ? 漢字ではどう書くのか?」
八重子は思わず男の横顔を見た。漢字のつづりを訊いてくるロシア人なんているのか? 横顔からはなにもうかがえない。油断させようなどと姑息な策を弄してみても相手はびくともしない。八重子は、男が自分をどう扱うか、とうに決めてしまっているのではないかという気がした。こちらは、相手の心の動きを憶測したり、相手に揺さぶりをかけたり出来る分際ではないのだ。抵抗は無駄だ。じたばたしてもしょうがない。されるがままにするしかない。
八重子は焚き火に向かって坐り直すと、先の焦げた枯れ木の枝を抜きとって、岩床を覆う土の部分に漢字を書いた。焚き火の明かりで、条痕の左右にできた土の盛り上がりが、小刻みに揺らめく影を作って文字を浮き立たせた。
男は上半身をねじり、首を傾けて、しばらく文字を見つめていた。それから再び川に向かって歌い始めた。
「それ、さっきの孤児の歌じゃないの。なんか別のにしてよ」
八重子は平気で注文をつけた。破れかぶれの果ての境地に達したのだ。男は、明らかに調子の違う歌を歌い始めた。しかし、いかにも暗い歌だった。
「あんたが何を歌おうと勝手だけど。なんていう意味なのか、こっちはちっともわかんないから面白くないや」