ジャッカル21
男にそんなことを言われたことがない八重子は驚いた。
「なーぜ」
「君がここを離れると、君にも私にも、まずいことになると思う」
八重子は跳びのこうとしたが、男の腕が伸びるほうが早かった。
「なにするのさ!」
「何もしない。ただ行かないでほしいだけだ」
「大声出すよ!」
「やめたほうがいいな。出す前に死んでしまう」
八重子は、震え始めた。さっきの男の震えが乗り移ったようだった。善意が裏目に出た。とんでもないことになった。どうしよう。殺される。
「わかりました。あなたの言うとおりにします。殺さないで」
八重子は泣き始めた。
男は八重子を無表情に見つめていた。
「そこにじっとしていろ。燃えるものをもっと集めてくる」
あたりはすでに真っ暗になっていた。男は何回か、闇と焚き火の間を往復した。焚き火のそばに、薪になる材料が山と積まれた。
「今晩はここで私と眠るのだ。向こうを向いていろ」と男は静かに言った。
男はリュックからビニール袋を取り出すと、ファスナーを引いて、ズボンとシャツとタオルを取り出した。後ろ向きになった八重子に、タオルを一振りする音が聞こえ、上着とズボンのチャックを下げる音も聞こえた。
着替えを終えた男は、リュックからビニール袋を取り出して、防水チャックを開いた。何重にも折りたたんだ雨合羽のようなものが出てきた。どういう仕掛けになっているのか八重子には分からなかったが、マジシャンによって空中に突然咲き出た花のように、三畳ほどの床面積をもつ、四角錘をしたテントが一瞬で拡がった。男は、八重子が首からかけているラジカセをとり上げると、音量を大きくしてポップスを流し、テントの入り口にぶら下げた。いかにもキャンプに来ているふうにした。男は八重子をテントの中に追い込んだ。
八重子は気を張りつめていたものの、昼間の作業の疲れから、いつの間にか眠ってしまっていた。夜中にふと眼を覚まし、跳び起きた。ラジカセは切ってあった。大きく響きわたる水音が、テントの共鳴効果のせいなのか、四方八方から一様に聞こえてきた。テントの薄膜が、外部の世界と自分とを、歴然と遮断していた。
下宿のおばさんはなんて思っているだろう。携帯はとりあげられているので、家族や友達たちがさぞや心配していることだろう。このまま朝になったら、捜索願が出されるかもしれない。