ジャッカル21
すでに太陽は、川向こうを南北に延びる木曽山脈の裏に隠れてしまった。しかし真上の空はまだ薄青く光っており、西にそびえる恵那山の背後には入道雲がオレンジ色の光背となって立ち昇っていた。川筋には夜の気配が漂い始めた。水の色が昼間より濃くなってきた。水面を跳ねる魚が増えた。涼しい風も吹いてきた。
八重子は、風景が真昼の白い統一から夜の黒い統一へと衣装を変える境目の、短く貴重なこの時間が大好きだった。わずかの時間、太陽や闇の専制を逃れて、一つひとつのものの個性が、垣間見えるからだ。
陶然とあたりを眺め渡した八重子の視野に、なにやら奇妙なものが映っている。
岸辺は、砂地ではない。切り立って、高低様々である岩の台が、連なっている。そのひとつ、水面すれすれの高さで、たたみ二畳ぶんぐらいの台の上に、人間らしきものがうつぶせになって倒れていた。八重子は心臓がどきどきしてきた。溺死者か? もしまだ生きているのなら、応急手当をしなければ。そっと近寄った。その男は、顔をこっちに向けて目をつぶっていた。白い半そでのシャツにジーパンをはき、背中に黒いリュックを担いでいた。顔が青白い。しかし、子供のころから何人か溺死者を見ている八重子は、死んではいないと直感した。急いで人工呼吸をしなければならない。自分のリュックとゴミの入った袋を放り出した。岩の上に飛び降りると傍らにしゃがみこんだ。黒いリュックを引きはがそうとしたが、胸の前に留め金があるらしく、うまくいかない。仕方がないので男の顔を持ち上げてねじってみた。しかし口まで届かない。八重子は添い寝する形で寝そべると、男の口を思い切り吸った。背中をどんどんとたたいた。男の体の下に懸命にもぐりこみ、ほっぺたが痺れるまで吸い込んだ。何十回目か吸った時に、水がどっと出てきた。八重子は少し飲んでしまった。かすかにうめき声が聞こえた。八重子は一所懸命背中をたたいた。またうめき声が聞こえた。男は体を小刻みに動かし始めた。震えているのだ。八重子は、助かったんだ、と安堵した。人を呼ばねばならなかった。男の体を押しのけて、立ち上がろうとしたそのとき、男が口を開いた。
「行かないでくれ」
「何言ってんのよ。救急車呼んで、病院に行かなくちゃ、死んじゃうわよ」