ジャッカル21
一九九二年のインディー500のレースの記憶が、エアバッグに押し出された反吐のように、頭の真ん中に飛び出した。
その時、ジャッカルは第二グループの先頭にいた。突然前方でクラッシュが発生し、イタリア車がスピンしながら、ジャッカルのトヨタめがけて滑ってきた。ジャッカルは右にハンドルを切った。相手が反時計回りだからだ。ジャッカルの車はフェンスに跳ね飛ばされた勢いでセンターに戻り、その車のケツを追い抜きざまにさすった。身を縮こまらせたドライバーが一瞬見えた。その車は、さすった程度では大人しくならず、フェンスを越えてあの世に行ってしまった。運転していたのは、従兄弟で義理の弟でもあるヤコブだった。その経験はトラウマとなってジャッカルの心と反射神経に残ってしまった。ジャッカルはとっさの場合、右に切る。ヤコブが助かるようにと右に切る。左通行の日本では、それが自殺行為であるのはわかっていたのだが……
三十秒後、ジャッカルは、気絶から醒めた。血の匂いが漂っていた。セミの声がやかましい。額に熱波が当たっている。暖炉にくべた薪が燃えさかるような音がする。割れたフロントガラスの向こうでクシャクシャになった相手の車が火を吹いていた。運転手の上半身が見える。首がない。ジャッカルしか生者はいない。
ジャッカルは右足の足首と腿、右肘、右頬から出血していた。右足首の骨が折れている可能性があった。右わき腹の奥、肝臓周辺がひどく痛かった。タクシーの座席カヴァーを引っ剥がして止血用の包帯にした。いつ他の車がやってくるかわからない。ジャッカルは防波堤を乗り越えて砂浜に下りた。砂浜を西に向かう。血は垂れてしたたるほど出ていないはずだが、万が一でも血痕を辿られないように、波打ち際を歩く。痛みがひどい。気絶する可能性があった。
ジャッカルはちょっとした賭けに出る。海に全身を漬ける有利さに賭ける。
少しずつ深みに進んだ。身体を傾けて足先で蹴って前進した。人間が直立歩行するようになった理由は、ある時期水中生活をしていたからだ、という説がある。確かに、水中では体重の拘束を離れ、体をくの字型に曲げた苦行の前進から、顎を伸ばした垂直姿勢に立ち直れた。楽になった。冷たい海水が炎症部分に心地よい。