ジャッカル21
ブラート(兄弟)とは、密入国者に対しては、なかなか出にくい言葉だった。ロシア船に乗って日本に密入国する者は後を絶たない。彼らは、密告を恐れるあまり、船員たちにはへいこらする。船員たちは、彼らを、ロシア国内で指名手配されている強盗野郎であるとか、日本のやくざと組んで女衒や麻薬取り引きを企んでいるロシアマフィアであるとみなして、ゴキブリ以下の応対をする。船員たちは、密入国者に対しては賎民を蔑視する王侯のように振舞う。ブラート、とはまず呼ばない。しかし、その男に対してだけは、船員たちは、ブラートと言った。その圧倒的な存在感と、得体の知れない者の持つオーラに恐れをなしたからだった。もっとも、本名を誰も知らなかったせいもあったが。
その男は、振り返って船橋を見た。碇を巻き上げるための二基のウィンドラスの向こうにハッチがある。それを迂回して、立ち働く船員達を縫いながら、すでに船橋に走っていくオブローモフの禿げた後頭部が見えた。船橋は上甲板左舷側に聳えていた。一階と二階が船員のベッドルーム、三階前方に操舵室、後方に船長室がある。屋上には、パラボラアンテナが二基、大型平行アンテナが一基、短波用の棒アンテナが一基突き出ている。その向こうに、デリックポストが巨大な電信柱のように突っ立ち、さらに船尾に大きなイチョウの木のような鳥居型ポストがアームをひろげて立っていた。それらのかなたに、灰色の日本海が、茫々と展開していた。たくさんの白ウサギが、灰色の草むらから跳び上がっては隠れるように、波が立ち騒ぐ。
船長室に入ったその男に向かって、船長のマカール・ジュノビエフは、「すまないが、床に坐ってくれ」と言った。