ジャッカル21
二人はシュミット中尉橋のそばまでやってきた。造り替える前の名残として、橋の両側には、アーチ状の石組のパネルが貼り付けてある。女はそれに寄りかかって微笑んでいた。しかし眼がもの悲しそうだった。少し酔っている。けだるそうに足を組んでいる。妖精がしばし翼を休めている風情だった。思いにふける憂い顔は、昼間とは別人のものだった。霧は上流に向かって、川の表を、湯気のように這っていた。上空のそれのように赤みがかってはいない。うっすらとしたミルク色だった。そのうちに霧はもっと濃くなって、溶けたチーズのようになるだろう。霧が橋の下を過ぎるとき、乱流が生じる。石垣の表面に渦がひろがった。女はその渦に飲み込まれるかのように橋梁の下に入り込む。ミハイルは追いかけた。人間が作ったのではないものが、薄暗がりのあちこちから湧き出てくる気配がした。
頭上からは、車の通る音が降ってくる。女は、ミハイルが普段歩いている通勤路からそれて、斜面を登っていく。後姿がミルク色の霧にまぎれてしまいそうだった。橋の上流と下流は、まだ光の量が多いので、視界が利いているが、ここは薄暗く、白くもやっていて、自分たちふたりだけが世界から切り取られたみたいだった。とても大都会の真ん中にいるとは思えなかった。
女の後姿を見失った。あわててしまう。ほとんどあてずっぽうに歩みを進めた。なにかに蹴つまずいた。女が、コンクリート敷きの床の上に片肘をついて寝転がり、ミハイルを切なげに見上げていた。ミハイルは傍らに腰を下ろすと、左手を伸ばして、女の眼鏡をはずした。
一九六四年、八月四日、午前十時四十五分
日本の妃殿下の送別会は、エルミタージュ美術館、ピョートル大帝の間を借り切って、盛大に催された。ミハイルはまたしても護衛兵役をおおせつかった。今回は、レセプションが開かれる大広間の正面ドアを開閉する係りだった。両開きのドアの内側に、もうひとりの同僚と立ち、使節団の先頭がノックしたら開けることになっていた。



