365本の花
僕は家の庭のきれいな花を眺めるのがとても好きだった。天気の良い日は太陽の光を浴びて輝いている花を何も考えずにのんびりと眺めたり、雨の日には雨粒が花びらに残り、透き通った水滴が浮かんで見えるその光景にとても癒されたり――。
ある夏の日。学校から帰ってきて自分の家の庭を何気なく見ると、いつもは生き生きと咲いている花たちが皆しおれて首をもたげていた。地面は乾ききって肌色になりいつもとは違う色だった。
その理由はそのあとすぐに分かった。いつも花に水遣りをしている母親がいなくなっていたからだった。
母親はその日、突然家を出て行った。
“しばらく、戻りません”
その一言だけが書かれた小さなメモ紙と、普段は飾られていない白くて小さい花がたくさんついた植物が花瓶に生けられてテーブルの上に置いてあった。理由は全く分からなかった。
父親との間に何かあったのだろうか? いや、それも特に思い当たることはなかった、息子の自分から見て、両親は普通に仲が良いように見えていたからだ。
母親から家に連絡が来ることはなかった。そのまま、1年半の月日が流れた。
そしてある日、まったく知らない東京の病院から電話があった。母親が事故で亡くなったとの知らせだった。その時の僕には母親がなぜ東京に行ったのか、なぜ家族のもとを離れたのか、まったく想像がつかなかった。
僕は高校を卒業して上京し、花屋でアルバイトを始めた。母親が出て行ってからは僕が実家の庭の手入れをしていた。その経験を生かして、花屋で働きたい。そう思ったのだ。
そして、花屋でバイトをして花のことを勉強してわかったことがあった。母親が家を出て行った日にテーブルに生けられていた白い花はユキヤナギ。その花言葉は“自由”。母親は自分の人生のために家族を捨てて出て行ったのだと思った。無理やりにでもそう解釈することにしたのだった――。
男の子が花を買いに来て3ヶ月が経ったある日のことだった。その日は水曜日。男の子は普段と変わらず花を買いに来た。
その後、僕は店を閉めて用事を足そうと家とは反対の方向に歩きだした。するとその途中、右手にぼろぼろになった花を持ち、下を向いて泣いている男の子を見かけた。
あれは――。
「どうしたの?こんなに傷だらけになって」
「同じクラスの子に殴られたんだ……」
こみ上げる嗚咽の中、男の子は振り絞って声を出した。
「どうして?」
「おまえ、男のくせに花なんかもってどこに行くんだよって。女みたい。バカじゃないのって言われたんだ。僕、許せなくて殴ろうとしたんだけど、逆にやられちゃった……」
「弱いから、僕」
「花、持って行く途中だったんだね?」
「うん……」
ふと、時計を見た。時計の針は11時30分を示している。
「ちょっと、待ってて、すぐに新しい花を持ってくるから」
僕は急いで店に戻り花を1本、バケツから抜いて男の子の元へ急いだ。
「これを持っていきなよ。あと20分しかないけど間に合うかい?」
「うん、ありがとう!」
涙を拭って男の子はお母さんのお墓の方に向かって行った。僕は男の子が走っていった方向と同じ方に歩いて行った。その先にある本屋へと本を買いに行く途中だったのだ。
でも、男の子は自分の目的を隠している。理由はわからないが気づかないようにしないといけない。そう思い、男の子に見つからないように注意しながらお墓の横を歩いた。
男の子はお墓の前で座っていた。僕が持ってきた花はもうすでに花挿しに挿したようだ。その花を見て僕は不思議に思った。もうお墓に生けられてから3ヶ月が経つ花が、すべて生き生きと咲いており1本も枯れていないのだ。
誰かが新しい花と交換しているのだろうか?それならば男の子に気づかれてしまいそうだけど。
そして男の子に目を向けると、彼は座り込んで何かの本を読んでいるようだった。表紙のタイトルだけ見えた。
「おはながよぶきせき」
あの子にとって大事な本なのだろうか?なぜお墓の前で読んでいるのだろう?あの本を探してみよう。そう思って、その場を離れた。
本屋に着いて、僕はまず自分の目的の本を手に取った。そして絵本のコーナーへ行った。あの子が読んでいた本はと、あった。これだ。
「おはながよぶきせき」
そういうことだったのか……。
僕はこの本を読んで、男の子が毎日欠かさずにお墓参りに行かなければいけない理由がわかった。
お母さんに蘇って欲しい――。1年間365日、毎日墓参りに行って花を手向ければお母さんが蘇る。
そのことを誰かに知られてしまうと奇跡は起きなくなる。絵本にはそう書かれていた。お花が呼ぶ奇跡を彼は信じているのだ。
シャッターが閉まった店の前で雨に濡れて待っていたのも、熱があってふらふらなのに墓参りに行こうとしたことも、友達に馬鹿にされて怒ったことも、すべて死んでしまったお母さんに蘇ってほしいからだった。
僕は2冊の本をレジに持って行った。絵本を買ってしまったのは涙でページを濡らしてしまったからではない。僕もこの本が好きになってしまったからだ。
月日は流れた。
男の子は1日も欠かさずに花を買いに来た。そしていつもの方向に歩いて行った。風が強い日も、雷が鳴っている日も、大雪の日も、墓参りを欠かすことはなかった。
このまま365日経っても、実際に男の子のお母さんが蘇ることはない。でも、僕はその事実を教えてあげることはできなかった。
大人として、絵本の物語を信じて学校にも行かずに毎日を過ごしている男の子に何も言わないのは非常識なのかもしれない。でも、男の子の決心をつぶすようなことはできなかった、
そして、とうとう1年が経った。365日が経ったのだ。
365日目の今日、僕は開店時間より2時間も早く店に来てしまった。早くあの男の子が来る時間にならないかとそわそわしていた。
男の子はいつもの時間にやってきた。彼の顔はシャッターの前で立っていたあの時のような凛々しい表情だった。
「お花を、お花を2本ください」
「2本?今日は2本なの?」
「うん」
「はい、じゃあお花2本だね」
すると、男の子は受け取った花のうち1本をすぐに返してよこした。
「どうしたの?これじゃあ嫌なの?」
「ちがうよ」
「いままで、いろいろと助けてくれてありがとう」
「これはお礼です」
「……」
僕は花屋をやっているが人から花をプレゼントされたことはあまりなかった。花をもらう喜びなど忘れていた。
でも、男の子からの花のプレゼントは他の誰からもらうよりも気持ちのこもったもののように感じた。
「ありがとう……。とってもうれしいよ」
そう言った僕に男の子は照れたように笑った。その笑顔はとても、とても素敵だった。
「じゃあ、気を付けてね」
「うん」
男の子はいつもの方向にお母さんのお墓にむかって歩いて行った。男の子が見えなくなると、僕はすぐに店を閉めた。今日は水曜日ではないが、臨時休業の紙をシャッターに貼り付けた。そして、お墓の方に向かって歩き始めた。