365本の花
水曜日のある日、花屋の店の前に一人の男の子が呆然と立ち尽くしていた。
店はシャッターが閉まり、本日定休日の札がかかっている。男の子はそれに気付かないのか、それとも無視しているのか、開くはずのない店の前にただ立ち尽していた。
やがて、雨が降ってきた。それでも男の子は店の前から動こうとはしなかった。隣の八百屋の主人が怪訝な顔で男の子に話しかける。
「ぼく、どうしたんだい?今日は花屋さんお休みだよ」
「お花、どうしてもお花がほしいんです」
「駅前のお花屋さんなら今日はやってるはずだよ」
「ここのお店の花じゃないとだめなんです」
「どうして?」
「……」
「でも、今日はお休みだからお店の人は来ないよ」
「どうしてもこのお店のお花がほしいんです」
意地でも店の前を動こうとしない男の子に八百屋の主人は困り果ててしまった。
「ちょっと、待っててね。花屋さんに電話してみるから」
八百屋の主人は一度店に入り、傘を持ってきて男の子に渡した。そして電話をかけ始めた。
――僕の携帯電話の着信音が鳴った。八百屋の主人からだった。
なんだろう? 八百屋の主人から携帯に電話が来るなんて初めてだよな。店でなにかあったのかな……。
戸惑いながらも、僕は携帯電話の通話のボタンを押した。
「あっ、斉藤さん?お休みのところ悪いね。君の店にいつも花を買いに来る男の子がね、さっきから雨が降っているのにずぶぬれになって、君の店の前に立っているんだよ。どうしても君の店の花が欲しいみたいなんだ。何を言っても帰ろうとしないんだよ。もし来られるなら、ちょっとだけ店を開けてやってくれないか」
「わかりました。今すぐ行きます。」
僕はすぐに自宅を出て、自分の店へと向かった。
八百屋の主人の言うとおり、男の子は自分の店の前で雨に濡れたまま、真剣な目でシャッターを見つめていた。その表情には何か決意のようなものが感じられた。
「ぼく、どうしたの?今日は花屋さんお休みなんだ」
「お花、お花売ってくれませんか?」
「構わないけど、他にもお花屋さんはあるのにどうして僕の店の前で待っていたの?」
「お母さんが、お母さんがいつもこのお店で花を買っていたから」
「君がお母さんの代わりに毎日花を買いに来ているの?お母さんはどうしたの?」
「……」
男の子はその問いかけには答えなかった。
「まあ、いい。そのままじゃ風邪を引いちゃう。今すぐに店を開けるから。さあ、中に入って。濡れた服を乾かさなきゃ」
「ありがとう。でも、時間がないの。」
時計は11時30分を指している
「急いでいるの?」
「うん、午前中のうちにこの花を持って行かなくちゃいけないの」
「どこに?」
「……」
さっきと同じように男の子はその問いかけには答えなかった。
「じゃあ、ちょっと大きいけど、これを着ていきな」
僕はずぶぬれになった男の子のシャツを脱がせて、店に置いていた自分の着替え用のシャツを着せた。小さい男の子の身体にはダブダブだったが、余った生地を絞って腰のところで片結びをし、何とか格好をつけた。
「お花……」
「そうだったね、じゃあこれ100円です」
「お店、開けてくれてありがとう。じゃあ、行ってきます」
男の子がどこに行くのかはわからなかったが、いってらっしゃいと声をかけ見送った。
――初めてこの男の子が店に来たのも今日と同じような強い雨が降っている日だった。
午前10時40分、毎日同じ時間に花を1本買っていく。小学生のように見えるが学校には行っていないのだろうか? 不思議に思っていたが、直接聞くことはしていなかった。
次の日、やはりいつもの時間に男の子はやってきた。でも、何か様子がおかしかった。顔がほんのり赤くて元気がない。
「お花をください」
声も普段より弱々しかった。熱があるんじゃないか?僕は男の子のおでこを触ってみた。思ったとおりだ。
「ダメじゃないか、こんなに熱があるのに外に出たりしたら」
「でもお花を、お花を持っていかなきゃ」
「どうしても持っていかなきゃいけない理由でもあるの?」
「お母さん、お母さん……」
僕の問いかけの答えにはなっていなかったが話すのも辛そうなので、それ以上は聞かなかった。
「わかった。じゃあ僕がおんぶしていってあげるからいっしょに行こう」
男の子に花を1本渡し、店のシャッターを半分閉め、男の子をおんぶして店を出た。
「どこに行けばいい?」
「あそこの角を右に、次の信号を左」
しばらく歩いたところで男の子は言った。
「もうここでいいよ。ありがとう」
「ここでいいの?道の真ん中で何にもないじゃないか」
「もう近くまで来たからいいの」
「帰りはどうするの?1人じゃ帰れないだろう?」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないだろう」
「……」
「わかった。じゃあここで待っているから目的のところへ行っておいで」
「うん、ありがとう」
僕はこっそり男の子の後をつけた。どこに行くのか興味があったのはもちろんだが、身体が大丈夫か心配でもあった。
男の子を下した場所から5分ほど歩いた。男の子は両側に色とりどりのあじさいが咲いている垣根の間を進んでいった。階段を数段のぼり、ちょっとした高台に男の子の姿が見えた。
その場所はお墓だった。男の子が立ち止ったそのお墓には6本の花がかざってある。
これはあの子のお母さんのお墓なのかな。お母さんは何かの理由で亡くなったのかもしれない。僕は男の子を下した場所に戻り、何も知らない顔で声をかけた。
「用事は済んだ?」
「うん」
「じゃあ帰ろう。」
戻ってきた男の子の顔は赤みが消えてスッキリしているように見えた。もう一度、男の子のおでこに触ってみると熱はすっかり下がっていた。
「もう、大丈夫。1人で帰れるから」
「元気になったみたいだね」
「うん、今日は本当にありがとう」
「じゃあ、気をつけて帰るんだよ」
男の子が毎日花を買いに来ている理由がわかった。午前のうちにお墓参りに行かなきゃいけないなんて、おばあちゃんからの教えなのだろうか。
ただ毎日学校にも行かず、体調不良をおしてでも、墓参りを欠かさないのは何か特別な想いがあるのではないか。男の子の事情に深入りする権利などないが、僕はそれが何なのか知りたくで仕方がなかった。
それ以来、僕は定休日の水曜でも通常の開店時間に店を開け、男の子が花を買いに来るまで営業することにした。
「あのさあ、毎日花を買いに来る男の子のことなんだけど……」
次の日の朝、店を開けてすぐに隣の八百屋の主人が話しかけてきた。
「あの男の子、うちの孫と同じクラスの子だったんだよ。こないだ、あの男の子が花を買いに来た時に孫が見ていてね。男の子のことを教えてくれたんだ。どうやら母親を病気で亡くしたみたいだ。それから学校へ行かなくなってしまったみたいでさあ」
「そうだったんですか……。お母さんをなくして相当、ショックだったでしょうね。」
八百屋の主人からその話を聞いて、僕は8年前に亡くなった自分の母親のことを思い浮かべた。
母親は実家の庭で花を育てるのがとても好きだった。朝顔、菊、千日紅、クレマチス、ヒガンバナ――。たくさんの種類の花が我が家の庭にはきれいに咲いていた。
店はシャッターが閉まり、本日定休日の札がかかっている。男の子はそれに気付かないのか、それとも無視しているのか、開くはずのない店の前にただ立ち尽していた。
やがて、雨が降ってきた。それでも男の子は店の前から動こうとはしなかった。隣の八百屋の主人が怪訝な顔で男の子に話しかける。
「ぼく、どうしたんだい?今日は花屋さんお休みだよ」
「お花、どうしてもお花がほしいんです」
「駅前のお花屋さんなら今日はやってるはずだよ」
「ここのお店の花じゃないとだめなんです」
「どうして?」
「……」
「でも、今日はお休みだからお店の人は来ないよ」
「どうしてもこのお店のお花がほしいんです」
意地でも店の前を動こうとしない男の子に八百屋の主人は困り果ててしまった。
「ちょっと、待っててね。花屋さんに電話してみるから」
八百屋の主人は一度店に入り、傘を持ってきて男の子に渡した。そして電話をかけ始めた。
――僕の携帯電話の着信音が鳴った。八百屋の主人からだった。
なんだろう? 八百屋の主人から携帯に電話が来るなんて初めてだよな。店でなにかあったのかな……。
戸惑いながらも、僕は携帯電話の通話のボタンを押した。
「あっ、斉藤さん?お休みのところ悪いね。君の店にいつも花を買いに来る男の子がね、さっきから雨が降っているのにずぶぬれになって、君の店の前に立っているんだよ。どうしても君の店の花が欲しいみたいなんだ。何を言っても帰ろうとしないんだよ。もし来られるなら、ちょっとだけ店を開けてやってくれないか」
「わかりました。今すぐ行きます。」
僕はすぐに自宅を出て、自分の店へと向かった。
八百屋の主人の言うとおり、男の子は自分の店の前で雨に濡れたまま、真剣な目でシャッターを見つめていた。その表情には何か決意のようなものが感じられた。
「ぼく、どうしたの?今日は花屋さんお休みなんだ」
「お花、お花売ってくれませんか?」
「構わないけど、他にもお花屋さんはあるのにどうして僕の店の前で待っていたの?」
「お母さんが、お母さんがいつもこのお店で花を買っていたから」
「君がお母さんの代わりに毎日花を買いに来ているの?お母さんはどうしたの?」
「……」
男の子はその問いかけには答えなかった。
「まあ、いい。そのままじゃ風邪を引いちゃう。今すぐに店を開けるから。さあ、中に入って。濡れた服を乾かさなきゃ」
「ありがとう。でも、時間がないの。」
時計は11時30分を指している
「急いでいるの?」
「うん、午前中のうちにこの花を持って行かなくちゃいけないの」
「どこに?」
「……」
さっきと同じように男の子はその問いかけには答えなかった。
「じゃあ、ちょっと大きいけど、これを着ていきな」
僕はずぶぬれになった男の子のシャツを脱がせて、店に置いていた自分の着替え用のシャツを着せた。小さい男の子の身体にはダブダブだったが、余った生地を絞って腰のところで片結びをし、何とか格好をつけた。
「お花……」
「そうだったね、じゃあこれ100円です」
「お店、開けてくれてありがとう。じゃあ、行ってきます」
男の子がどこに行くのかはわからなかったが、いってらっしゃいと声をかけ見送った。
――初めてこの男の子が店に来たのも今日と同じような強い雨が降っている日だった。
午前10時40分、毎日同じ時間に花を1本買っていく。小学生のように見えるが学校には行っていないのだろうか? 不思議に思っていたが、直接聞くことはしていなかった。
次の日、やはりいつもの時間に男の子はやってきた。でも、何か様子がおかしかった。顔がほんのり赤くて元気がない。
「お花をください」
声も普段より弱々しかった。熱があるんじゃないか?僕は男の子のおでこを触ってみた。思ったとおりだ。
「ダメじゃないか、こんなに熱があるのに外に出たりしたら」
「でもお花を、お花を持っていかなきゃ」
「どうしても持っていかなきゃいけない理由でもあるの?」
「お母さん、お母さん……」
僕の問いかけの答えにはなっていなかったが話すのも辛そうなので、それ以上は聞かなかった。
「わかった。じゃあ僕がおんぶしていってあげるからいっしょに行こう」
男の子に花を1本渡し、店のシャッターを半分閉め、男の子をおんぶして店を出た。
「どこに行けばいい?」
「あそこの角を右に、次の信号を左」
しばらく歩いたところで男の子は言った。
「もうここでいいよ。ありがとう」
「ここでいいの?道の真ん中で何にもないじゃないか」
「もう近くまで来たからいいの」
「帰りはどうするの?1人じゃ帰れないだろう?」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないだろう」
「……」
「わかった。じゃあここで待っているから目的のところへ行っておいで」
「うん、ありがとう」
僕はこっそり男の子の後をつけた。どこに行くのか興味があったのはもちろんだが、身体が大丈夫か心配でもあった。
男の子を下した場所から5分ほど歩いた。男の子は両側に色とりどりのあじさいが咲いている垣根の間を進んでいった。階段を数段のぼり、ちょっとした高台に男の子の姿が見えた。
その場所はお墓だった。男の子が立ち止ったそのお墓には6本の花がかざってある。
これはあの子のお母さんのお墓なのかな。お母さんは何かの理由で亡くなったのかもしれない。僕は男の子を下した場所に戻り、何も知らない顔で声をかけた。
「用事は済んだ?」
「うん」
「じゃあ帰ろう。」
戻ってきた男の子の顔は赤みが消えてスッキリしているように見えた。もう一度、男の子のおでこに触ってみると熱はすっかり下がっていた。
「もう、大丈夫。1人で帰れるから」
「元気になったみたいだね」
「うん、今日は本当にありがとう」
「じゃあ、気をつけて帰るんだよ」
男の子が毎日花を買いに来ている理由がわかった。午前のうちにお墓参りに行かなきゃいけないなんて、おばあちゃんからの教えなのだろうか。
ただ毎日学校にも行かず、体調不良をおしてでも、墓参りを欠かさないのは何か特別な想いがあるのではないか。男の子の事情に深入りする権利などないが、僕はそれが何なのか知りたくで仕方がなかった。
それ以来、僕は定休日の水曜でも通常の開店時間に店を開け、男の子が花を買いに来るまで営業することにした。
「あのさあ、毎日花を買いに来る男の子のことなんだけど……」
次の日の朝、店を開けてすぐに隣の八百屋の主人が話しかけてきた。
「あの男の子、うちの孫と同じクラスの子だったんだよ。こないだ、あの男の子が花を買いに来た時に孫が見ていてね。男の子のことを教えてくれたんだ。どうやら母親を病気で亡くしたみたいだ。それから学校へ行かなくなってしまったみたいでさあ」
「そうだったんですか……。お母さんをなくして相当、ショックだったでしょうね。」
八百屋の主人からその話を聞いて、僕は8年前に亡くなった自分の母親のことを思い浮かべた。
母親は実家の庭で花を育てるのがとても好きだった。朝顔、菊、千日紅、クレマチス、ヒガンバナ――。たくさんの種類の花が我が家の庭にはきれいに咲いていた。