仮想の壁上
この資金獲得業務は、公になったとしても経済活動の逸脱として処理できる場合は深刻な問題にはならないのではないでしょうか。両耳の中に電波部品が埋め込まれていることを知らない大半の人たちには、私企業がこの獲得した資金によって電波部品を製造しているのではないかという発想はないと思うのです。従って、私企業にとって最も重要なことは、資金獲得業務に携わる人たちからこの仕組みが外部に漏れることを防ぐということではないでしょうか。そのためには、この人たちが私企業に対して不満を持ち、組織に対して敵対的な態度をとることがないようにする仕組みを作っておく必要があるのではないでしょうか。基本的には、この人たちが現状に満足し、この現実が少しでも長く続くように希望するような精神状態に保たせることが必要だと思うのです。
人間が違法行為に親近感を感じるのは、周りの人たちもまじめに生活しているわけではない、自分だけまじめに生活してもばからしいだけだ、従って、自分も要領よく生活する権利があるのではないかと考える時ではないでしょうか。報道機関や出版社が毎日提供する情報には何と違法行為の事例が多いことでしょう。現代社会の問題点が多ければ多いほど社会の乱れを人々が感じ、要領のよい生活への欲求が強くなるのではないでしょうか。現代社会の問題点を社会の乱れと感じることなく、新しい秩序であると感じるようになれば要領のよい生活への欲求も何ら後ろめたいものではなくなり、立派に人間の権利であると考えられるようになるのではないでしょうか。
要領のよい生活とはいったいどのようなものなのでしょうか。それは、欲しいものが楽に手に入る生活ではないかと思うのです。人間の欲望には限りがないものですので、欲しいと思うものは人によってはお金であったり、地位、名誉、仕事の成果、人間関係であったりすると思うのです。社会にはこれだけ多くの人たちが生活しているので、それぞれの立場で欲しいものが違ってくるのは当然ではないでしょうか。それをすべて満足させるというのは大変なこと、というよりもはっきり言うならば不可能なことだと思うのです。従って、次善の策としてなるべく多くの人を満足させる方法を工夫する必要があるのではないでしょうか。
自分が欲しいと思うものはおおむね社会で一般的に大切と思われているものではないでしょうか。誰でも、日々周りの者から教えられ、それ以外からもいろいろな情報として繰り返し入ってくる考え方というものは、自然と身についてしまうものだと思うのです。それでは社会で一般的に大切だと思われているものとはいったいなんなのでしょうか。毎日の生活に欠かせないもので、それさえあれば大抵のものを手に入れることができ、普通の社会生活の中で誰でも獲得できる可能性のあるもの、それはお金ではないでしょうか。社会の風潮として、お金に換算して損得を考える考え方が一般的であれば、お金によって容易に多くの人を満足させることができるのではないでしょうか。
しかし、そのお金を手に入れたら、人間は次にどのように考えるでしょうか。お金が増えればそれを使うことによってもっと多くのものが手に入る、そのためにもっと多くのお金を手に入れたいと考えるのが普通ではないでしょうか。これでは、人間は満足するということがなくなってしまうのではないでしょうか。このため、ある程度で満足するという工夫も必要になってくるのではないかと思うのです。人間が満足するとはいったいどういう時なのでしょう。これ以上は手に入らなくても仕方がないと考え、それ以上のものを望まなくなる時ではないでしょうか。この仕方がないというのが大切なところで、あきらめた時に満足を感じるのではないかと思うのです。あきらめるというのは比較の問題で、他の人たちよりある程度の優越感を感じた時、欲望の充足感を感じあきらめることができるのではないかと思うのです。他の人たちとの比較の中で満足するという仕組みが、心のよりどころがない社会では絶対に必要ではないでしょうか。
他人との比較の中で満足を感じる仕組みにはもう一つ大事な仕掛けが必要ではないかと思うのです。それは、社会全体の欲望の総和に関するものではないでしょうか。他人との比較の中で満足を感じる場合、その他人が十分に欲望を充足していれば、それ以上のものを与える必要があり、与えるものが際限もなく膨らむことでこの仕組みが破たんする可能性があるのではないかという問題が発生すると思うのです。その問題を未然に防止するためには、その他人が見るからに貧しく、はたから見てもとても満足しているとは思えない状態にある必要があると思うのです。つまり、与える前に全体から奪っておく必要があると思うのです。自分は他人に比べて恵まれていると感じている人が、実はそれが普通で、他人のほうが必要なものが与えられていないだけというからくりがこの仕組みに永続性を与える要点ではないでしょうか。
与える前に奪うという仕組みにも、制限がきかなくなれば弱肉強食が横行するみじめな社会に突き進んでしまう可能性があるのではないでしょうか。奪う側も、いつ奪われるような境遇になるかもしれないという不安を持てば、常に身近なところで弱者を生産する行動をとることによって、心の平和を保とうとするようになるのではないでしょうか。これでは、安定した永続性のある社会の実現は不可能で、常に外敵を攻撃することによってしか社会の統一が保てなくなるのではないでしょうか。従って、与える前に奪うにしても、最低限度の生活は保障するという努力規定は必要なのではないでしょうか。以上の点を理解したうえで企業統治について想像してみたいと思うのです。
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