山の母
「春彦さんはどなたですか。どうして姫神様といらっしゃったのに死なないのですか。殺されないのですか」
「僕は」
自分は何者なのだろう。須磨が試みていたように、常にすることを並べ上げてみる。朝食の支度をする。父を送り出す。母を起こして昼食にする。たまにその母と出かける。須磨と比べてみても要領を得ない。
つまり私とそう変わらないのですねと須磨が言った。
「同じです」
「え?」
「私は山を出たことはございませんが、大体は春彦さんと似たようなものです。お料理を作って姫神様のお迎えをして。春彦さんも、姫神様がいるところの他にはあまりゆかないのと同じで」
同じですと須磨は言って、ふと思い出したようにそれで――と言った。
「あの方は。その、前を触ったりとか」
須磨は言いにくそうに身を捻りながらいつもあんなことをなさるのでしょうかとと聞いた。本題はそちらだったらしい。男との前戯では大抵そんなことをしているが、そこまでは言わずに須磨を見ていて、ふと夢は見ないのかと聞いた。
自分は夢で幾度となくそれを見ている。須磨は顔を赤らめたまま、そんな夢は見ませんと言った。眠ったとき抜け出た魂が見る風景を夢と言うのでしょうと顔で言う。ならば自分は寝ているあいだ何度も母と交っていることになる。死んでしまう夢はどうなるのだろう。夢の種類が違うのだろうか。
「春彦さんも、随分山の気が強いようにございます。あの方は今まで見た中でも随一の魔法使い、山を渡るのも人を馬に変える術も左右なきほど、春彦さんも流れているものは同じに思います。ならば夢は夢でもただの夢と無碍に切り捨てるわけにもゆきますまい」
「ただ夢の方がいい」
「夢でなかったら私の知る限り、始末に困ってここへ連れてこられるもののように思いますが」
ふと須磨が不安そうな顔をして、その後もご存じですかと聞いた。夢では須磨は見なかった気がする。ただし自分は母に殺されてしまう。夢ならばいくら殺されても目が覚めたからただの夢の方がいい。そう言うと須磨は渋い顔をして、それでも死んでしまうのですかと呟いた。
「私は」
もう男の体だとおっしゃっておいででしたと静かな声で須磨が言って風呂の沸き具合が気になるのか釜の口を見る。
「飽いた男はここに連れてきて、みんな殺してしまうのでしょう。姫神様から名前も頂きました。私が須磨になりましたら、関守が関守でなくなりましたら、ただの男になりましたら、もうあとは」
殺されてしまうのでしょうかと言った。自分は母の隣に並んでいた男の行方を知らない。けれども例外だってあったはずだ。
里にいる自分の父は無事だと須磨に言うと、山にしか行き所がございませんと言って恨めしそうに衣の前を見た。じっとり体が汗ばんでいる。
「それに例外なのでしょう。他の方の行方を見たことがありますか」
「ううん」
「ならば、その数を思い出せますか」
母には数多の男がいたはずである。また夜の外出は遅くなるのと、自分が父の夕食の支度をするのとで連れて行ってもらえないことが多い。その間はたぶん男と会っているように思われた。だから正確な数は判らない。
ふと思い出した母の恋人は金の鎖をしていた優男だった。須磨に聞くと確かそのような方もいらっしゃいましたねと頷いた。
「あの方は白い駒になりました。人懐こい駒でしたので、殺してしまうには惜しくなったのか、姫神様はしばらくは山の行き来に使っておいででした。けれどもきつい山坂にとうとう足腰も立たなくなりまして」
結局つぶしましたと須磨が言う。
「肉鍋はどうも苦手です」
「だからいつまでもちびのままなんだよ」
ふと見ると襖が開いていて、敷居の向こうに母が立っていた。須磨はぎょっとしたようだったが母の方は一向に気にしていないのか、引きかけた戸を押し広げると須磨もおいでと言う。紅葉の衣は着たままである。衣紋かけをと慌てて腰を浮かせかけた須磨をまあまあと制して好きで着ているんだからと言って袖を広げて見せた。
「お話にはうかがっていましたが」
「ようやく取り返したんだ。袖を通したのは久しぶりだ」
春彦とは随分仲良くなったようじゃないかと須磨と自分を見比べて、母はまあ上がれと座敷へ促す。重の包みはもう広げてあって小さな卓にのせてある。
「お前は肉を食え、肉を。春彦は夕ご飯食べたっけね。まあ歩いてきたから疲れているだろう、ほしいものがあればお上がり。何がいい」
「にんじん」
「人参ねえ」
「里のものですか」
「里のものだけど甘いのは私の特製さ。砂糖を入れて煮るんだよ」
母が笑って皿はと聞いた。ただいまと言って須磨はふと自分の方を見る。
「春彦さん、運ぶのを手伝ってもらえますか」
母が先に部屋へ引っ込んだのを見て、須磨は炊事場の方へ自分を呼ぶ。近寄ると須磨は少し前屈みになって耳元に口を寄せて帰りたいですかと聞いた。
「山の外へ」
返すべき答えが出ない。ぼんやりとしているのがいけない。いつも自分はぼんやりしている。答えるのに今しばらく時間はいりますかと須磨は笑って炊事場の棚から小皿を二、三枚取った。少し向こうには同じ柄の猪口がある。
「今はあまり時間がないから後でまた聞きます。春彦さんは先に行ってお重から頂いてください。菊酒と山菜には箸をつけないこと。それから、」
里から持ってきた荷物に菓子や水筒はありますかと須磨が聞いた。菓子ならある。水筒はないのですね、と須磨はしばらく考えた末に軽く自分の背中を叩いた。先に行けということらしい。
ぼんやりしていると須磨が戸を開けて表に出て行くのが見えた。靴を脱いで座敷に上がる。火鉢を抱えて母はおう皿が来た、と言って笑う。
「菊酒はまだかい」
「須磨さんが取ってくるって」
「なんだい。さんって、ちょっとは仲良くなったようだけど」
「だってまだ慣れてないんだもの」
程なくして須磨が来る。山菜の皿には菊が散らしてあって花の先に露がついているが見えた。自分の考えたことのない料理である。
酒をかけたのかと母が言った。かけてみたらおいしいかなと思ったんですと須磨が答えた。
「まあ酒は美味いものだけどね。春彦には食べられるかな」
「山菜は舌にまだ苦いお年頃でございましょうから、お重の方から頂いてもらうことにしましょう」
「しかしねえ。好き嫌いはよくないし、お前だって春彦くらいのときは食っていたんじゃなかったっけ」
肉は苦手でございますからと言う関守に煮物の肉を押しつけている母の傍らで、須磨に言われた通り小皿を重のもので満たすととりあえず人参を口に放り込む。甘く煮た人参の柔らかい味がさほど噛まずにとろとろ崩れて口の中いっぱいに広がった。須磨は母を挟んで向かい側でのらくら母の言を受け流しながらゆっくりと箸を運んでいる。嫌いと言っていた肉にもそろそろ手を着けて口に入れた。それでも喉の辺りで詰まらせている。
「よく噛まないからだよ」